腰をさする女性

腰痛を軽減したい!改善に向けた寝方とおすすめの寝具について

寝具の選び方

腰痛を軽減したい!改善に向けた寝方とおすすめの寝具について

#寝具

腰痛は多くの方が抱える悩みです。実は、私たちが人生の約3分の1を過ごす睡眠時の姿勢や寝具選びが、腰痛改善の重要なカギを握っています。

この記事では、快適な眠りと健やかな目覚めのために、正しい寝方と適切な寝具選びをご紹介します。

寝ているときに腰痛が生じるのはなぜ?

枕に顔をうずめて眠っている女性

朝起きたときに腰や背中が痛いと感じる方は、いくつかの要因によって寝ているあいだに腰痛が生じています。

下記ではそれぞれの原因を詳しく解説します。

  • 寝姿勢が悪いから
  • 身体に寝具が合っていないから
  • 睡眠時間が長すぎるから

寝姿勢が悪いから

反り腰の方が仰向けで寝ると、背骨のカーブによって布団と腰のあいだに空間が生まれ、腰の支えが得られません。

また、腰椎はやわらかい内臓や筋肉に囲まれているため、これらの十分な支えがない状態で眠ると、腰椎が沈み込んで神経を圧迫し、腰痛の原因となります。

さらに、腰部脊柱管狭窄症の方は、仰向けで寝ることで腰が反り、もともと狭い脊柱管がさらに狭くなることで神経が圧迫されます。その結果、足や腰の痛み、しびれといった坐骨神経痛の症状が悪化する可能性があるため注意が必要です。

なお、下記では理想の寝姿勢に関して詳しく解説しているので、ぜひ参考にしてください。
理想の寝姿勢とは?仰向け、横向き、うつ伏せ寝のポイントを徹底解説

身体に寝具が合っていないから

マットレスの硬さは腰痛に大きく影響します。マットレスがやわらかすぎると身体が深く沈み込み、寝返りが困難になるため、圧力分散や血液の循環が妨げられ、疲労物質の排出も滞ってしまいます。

一方、硬すぎると肩甲骨やお尻などの出っ張った部分に負担がかかり、背骨の自然なS字カーブが崩れてしまうのです。

厚生労働省の情報サイト「e-ヘルスネット」によれば、立位時4〜6cmある腰部のカーブを、寝姿勢では2〜3cmに保てるほどよい硬さのマットレスがおすすめとされています。

ブレインスリープのマットレスは、身体への負担が最も少ない姿勢を再現できる構造になっており、腰だけでなく肩や脚もしっかり支えられます。
ブレインスリープ マットレス プレミアム フロート

睡眠時間が長すぎるから

睡眠時間が長くなると、それだけ身体の動きが制限される時間も長くなります。この状態が続くと、腰の周辺部分に負荷がかかり続けることになります。

特に、脊椎の骨と骨のあいだにある椎間板は、長時間同じ姿勢による圧迫を受けることで腰への負担が増し、痛みが生じるのです。

なお、厚生労働省「健康づくりのための睡眠ガイド2023」によると、個人差はありますが、理想の睡眠時間は6時間以上とされています。理想の睡眠時間について詳しく知りたい方は、こちらの記事もご覧ください。
理想の睡眠時間はどのくらい?最適な時間の見つけ方と確保の仕方

腰痛を改善・軽減する寝方とは?

睡眠時の腰痛を緩和させるための対策をご紹介します。

仰向け寝では膝を立てる

腰痛を和らげるために効果的なのが、膝下にクッションや座布団を入れることです。膝を立てた状態にすることで股関節が自然と曲がり、腰の反りが抑えられます。

これにより、腰への負担が軽減され、睡眠時の痛みを防げます。就寝中にクッションがずれてしまうことがあるため、敷き布団の下にクッションや座布団を入れるのがおすすめです。

横向き寝ではタオルで腰椎を支える

横向き寝では、腰椎をしっかりサポートすることが腰痛予防のポイントとなります。幅10センチほどに折ったタオルをウエスト部分に敷くことで、腰椎が不自然にしなるのを防ぎ、安定した姿勢を保てます。

なお、タオルだけでは就寝中にずれやすいため、腹巻きも活用するのがおすすめです。腹巻きのなかに小さく畳んだタオルを入れ、腰の横のくびれ部分に固定することで、腰椎周りを支えられ、一晩中快適な睡眠を得られるでしょう。

腰に負担をかけない寝返りを打つ

ぎっくり腰やひどい腰痛、坐骨神経痛がある方は、寝返りの際に強い痛みを感じることがあります。

そのような場合、腰への負担を軽減できる方法があります。寝返りを打つ際に試してください。

  1. 膝を曲げて身体をコンパクトに丸める
  2. 腹筋に力を入れた状態を保つ
  3. 上半身と下半身を寝返りしたい方向へ動かす

上半身と下半身をバラバラに動かして寝返りすると腰や背中に負担がかかるため、注意しましょう。

腰痛時にやってはいけない寝方・起き方

ここからは腰が痛いときにやってはならない寝姿勢や起き方をご紹介します。

足を伸ばした仰向け寝

仰向けでの寝姿勢は身体への圧力が均等に分散されるため、うつ伏せ寝や横向き寝と比べると腰への負担が少なくなります。

ただし、完全に足を伸ばした状態で寝ると骨盤が引っ張られ、腰がさらに痛くなる可能性があるため注意が必要です。

特に腰が反っている方は、仰向けになると腰の反りが強調され、腰椎への負担がかかる傾向にあります。そのため、サポートを使用するなど、工夫が必要です。

うつ伏せ寝

うつ伏せで寝る姿勢は、腰に自然と重力がかかることで腰部が沈み込みやすくなります。この状態が続くと、腰椎が過度に反りかえってしまい、不自然な姿勢が長時間維持されることになります。

その結果、腰の筋肉や靭帯にも余分な負担がかかり、腰痛を悪化させたり新たな腰痛を引き起こしたりするかもしれません。

痛い部分を下にした寝方

腰痛がある部分を下にして寝ることは、一見すると痛みを和らげるように感じるかもしれません。しかし、この姿勢では痛みのある部分の筋肉が過度に緊張し、血流が悪化してしまいます。

血行不良は、筋肉への酸素や栄養の供給を妨げ、老廃物の排出も滞らせることになります。

腰の痛みが慢性化したり症状が悪化したりする可能性が高くなってしまうため、避けなくてはならない寝方です。

足を振った反動で起きる方法

ベッドや布団から足を振って勢いをつけて起き上がる方法は、腰に急激な負荷がかかります。

腰への負担を最小限に抑えるには、まず横向きの姿勢になり、その状態からゆっくり身体を起こすのがベストです。この起き方なら、腰への大きな負担を避けながら、安全に起き上がれます。

腰痛の対処方法

ベッドで伸びをする女性

ここでは、腰痛持ちの方が普段から気をつけたいポイントをまとめました。

腰の負担を軽減する寝具を使用する

睡眠中の腰痛は、主に腰がきちんとサポートされていない状態が長時間続くことで発生します。

これを解消するには、自分の体型や寝姿勢に合った適度な硬さのマットレスや敷布団を選ぶことが大切です。

腰をしっかりと支え、体圧を均等に分散させられる寝具を取り入れることで、腰痛の予防や改善、快適な睡眠につながるでしょう。

寝返りしやすい枕を取り入れる

腰痛の約85%は「非特異的腰痛」と呼ばれ、検査でも原因を特定できない腰痛症にあたります。理由は、長時間の中腰や猫背、運動不足による筋力低下、また冬場の寒さによる筋肉の硬直などが原因として考えられているからです。

通常はセルフケアで改善しますが、休養不足やストレスで長期化することもあります。快適な睡眠のためには、仰向けで寝ることが理想的です。仰向けは身体に余分な力が入らず、最もリラックスできる状態です。

また、就寝中は身体の血液循環を促し、特定部位への圧迫を防ぐために寝返りを打ちます。そのため、寝返りしやすい枕を選ぶのもポイントです。枕がやわらかすぎると頭の重さで寝返りがしにくくなります。

反対に硬すぎると肩や首に負担がかかり、肩こりになる可能性があるので注意してください。

下記では理想的な枕の選び方をご紹介しているので、あわせてご覧ください。
枕の理想的な高さとは?睡眠の質を高める枕の選び方も解説

医療機関を受診する

腰痛は誰もが経験する症状ですが、たとえ症状が軽くても6週間以上続くときは医療機関を受診して医師に相談しましょう。正確な原因を特定し、適切な治療法や日常で役立つアドバイスがもらえます。

また、「腰周りに発赤や腫れがみられる」「安静にしているにも関わらず痛みが持続する」という場合は、深刻な状態かもしれません。

このような症状がある場合は、患部を動かさないようにして、できるだけ早く医療機関を受診してください。

就寝時の腰をしっかりと支えるブレインスリープのマットレス

ここではブレインスリープがおすすめするマットレスをご紹介します。腰痛で悩んでいる方はぜひ参考にしてください。

腰痛を改善する寝方や自分に合った寝具を取り入れよう

腰痛を改善するためには、正しい寝姿勢と自分に合った寝具選びが重要です。特に、腰への負担を軽減したい方は、自身の体型や睡眠姿勢に合わせた適度な硬さのマットレスや敷布団を選びましょう。

腰痛に悩む方は、マットレスを睡眠に取り入れることで、よりよい睡眠環境を整えられます。ブレインスリープには正しい寝姿勢をサポートするマットレスが揃っていますので、ぜひ寝具選びの参考にしてみてください。

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...