敷布団と掛布団の間に置かれた枕

枕の選び方は性別や年齢によって変わる!自分に合う選び方を解説

睡眠コラム

枕の選び方は性別や年齢によって変わる!自分に合う選び方を解説

#快眠・安眠 #枕

枕は布団と同じように睡眠の質を左右する重要な寝具です。「眠りが浅い」「起きたときに肩が凝る」など不具合を感じている方は、枕が合っていないのかもしれません。

枕は身長や体格はもちろんのこと、性別や年齢でも選び方が異なります。夫婦や家族でおそろいの枕を買う方も多いですが、もしかしたら誰かが合わない枕を使うことになるかもしれません。

この記事では、性別や年齢によって枕の選び方が異なる理由と、実際の選び方を解説します。枕が合わないかもと悩んでいる方は、この記事を参考に枕を選んでみましょう!

枕の選び方が性別や年齢によって変わる理由

アイマスクをつけて寝ている白人女性

まず男女では、体格はもちろんのこと、骨格も微妙に異なります。具体的には、頸椎弧(首のカーブ)に違いがあるため、枕の選び方も異なるのです。

体格のよい方は、比較的高めの枕が適している傾向にあります。一方で、痩せ型の方やストレートネック(首のカーブが少ない)の方は、低めの枕が快適に感じることが多いです。

首のカーブは平均1.5cmから5cmと幅が広く、個人差があることがわかります。そこで自分に合った枕の高さを見つけるためには、簡単なセルフチェックをおこなうことがおすすめです。

  1. 壁に向かって立ちます。
  2. リラックスした状態であごを引き、頭と背中を壁につけます。
  3. 自然な姿勢で顔が約15度下を向くのが理想的な状態です。

性別や年齢に合った枕を使わないと起こりやすい主な症状

では、性別や年齢に合った枕を使わないと、どんな症状が起こるのでしょうか。

男性:いびき・睡眠時無呼吸症候群

男性は女性に比べて頸椎弧が深い傾向にあります。特に体格がしっかりしている方や、運動量の多い方により多く見られます。

頸椎弧の深い方が仰向けになった際、首と布団のあいだに大きな隙間が生じ、その結果、気管が狭くなってしまいます。これが男性に多い、いびきの主な原因となります。

いびきは周囲に迷惑がかかるだけではなく、睡眠時無呼吸症候群につながる可能性があります。

この問題への対策として、適切な高さの枕を使用するのが効果的です。正しい高さの枕を選ぶことで、首と布団の隙間を埋められ、いびきの軽減が期待できます。

また、朝の首の痛みや肩こりに悩んでいる方は、使っている枕が身体に合っていない可能性があります。

朝起きた際に頭が枕から離れている場合は、枕の高さだけでなく、サイズ自体が合っていないのかもしれません。思い当たる方は、枕の見直しを検討する必要があるでしょう。

女性:肩こり・首こり

女性の場合は、男性に比べると頸椎弧が浅く、仰向けになっても頭と寝具のあいだの隙間が小さいことがほとんどです。

このような方が高すぎる枕を使うと、かえって頸椎に負担がかかり、肩こりや首こりにつながります。

また、女性は肩幅も狭いため、あまり広すぎる枕を使うと身体に合わないこともあるでしょう。特に、小柄な方や細身の方は男性と同じ枕を使うと眠りの質が低下しがちです。

子ども:寝返りの打ちづらさ

枕の使用目的は子どもの成長段階によって変化します。例えば、生後0〜1歳では、頭の形を整えることや吐き戻しの防止、向き癖の予防が主な目的となります。

1〜5歳になると、活動による汗の吸収や湿気の放出が枕の役割です。そして10歳以降は、汗や湿気への対応に加えて、成長に合わせた高さの調整や、正しい寝姿勢の維持とサポートが必要になってきます。

このように、年齢に応じて枕に求められる機能は段階的に変化していくのです。

ただし、子どもの成長には個人差があるため、体格や寝相に合わない枕を使うと、寝返りがしづらくなり、結果として睡眠の質が低下してしまいます。

「大は小を兼ねる」といいますが、枕に限っては大きすぎても小さすぎてもよくありません。自分の肩幅や頭の大きさにあった枕を使うことが重要です。子どもの場合は子ども用の枕を使うことが最も適しています。

枕の選び方は性別によってどう変わる?

クエスチョンマークに囲まれた女性

では、枕を選ぶ際、どこに注意すればよいのでしょうか?

枕の高さ

体格の違いは、適切な寝返りを打つために必要な枕の高さに大きく影響します。 体格がよい方は肩幅が広く、仰向けから横向きになったときの頭と肩の高低差が大きくなります。そのため、スムーズな寝返りには、その高低差を補える高さの枕が必要です。

一方、痩せ型の方は肩幅が比較的狭く、寝返り時の頭と肩の高低差も小さいため、低めの枕でも問題ありません。

また、羽毛のようなやわらかすぎる素材は、一見心地よく感じられますが、頭が沈み込みすぎてしまい、適切な高さを保てないという問題があります。

このような支え方をすると、頸椎弧が「逆くの字」に曲がったり首と布団のあいだに隙間が生じたりします。その結果、気道が狭まっていびきの原因となるだけでなく、首や肩に過度な負担がかかってしまうのです。

一方で、頸椎弧が浅く体格の小さな方が、固くて高い枕を使用した場合も問題があります。首が不自然なくの字形に曲がってしまい、これも同様に首や肩に負担をかける原因です。

なお、体格は性別だけでなく年齢によっても変わってきます。年を取って太った、痩せた、筋肉がついた、落ちたで体格は変わるため、その都度枕を見直しましょう。

例えば、ダイエットで5〜10kg痩せれば体格は随分変わります。歳を取って筋肉が落ちても同様です。「いままで使っていた枕がなんだか使いにくくなった」という方は、枕が合わなくなったことが考えられます。この場合も、枕を見直しましょう。

また、寝起きで首が痛い方は下記を参考にしてください。
寝起きで首が痛いのは枕が原因?枕が合わないと出る症状や正しい選び方

枕の素材(硬さ)

枕の素材は、そば殻やパイプ、低反発ウレタンのような硬い素材から、羽毛や綿のようなやわらかい素材まで様々あります。

素材 やわらかい 硬い 硬さを選べる
羽毛
ポリエステルわた
ウレタンフォーム
ビーズ
そばがら
パイプ
ファイバー
ラテックス

人によって「硬めの枕が好き」「やわらかめの枕でないと眠れない」などあるかもしれませんが、好みの枕と身体に合う枕は違います。

前述したように、硬い枕は頭が沈み込まないというメリットはありますが、高すぎたり低すぎたりすると調節が難しいのがデメリットです。

一方、やわらかい枕は多少高さが合わなくても調整がしやすいのですが、ぴったりの高さを選んでも頭の重みで沈み込みが発生し、結果的に身体に負担がかかるというデメリットがあります。

そのため、やわらかい素材の枕を選ぶ際は、頭の沈み込みを考慮して枕を選ぶことが大切です。また、枕の下に支えを入れて硬さを調節する方法もあります。

また、素材だけでなく枕は形も重要です。スタンダードな形の枕は仰向けで寝るのには適していますが、横向きで寝ると首や肩に負担がかかることがあります。自分が横向き、仰向けのどちらで寝ることが多いのか、よく考えて選ぶことも大切です。

頭から首のラインがフィットしにくい場合は、首の部分が盛り上がった波形枕を選ぶのも一つの方法です。標準形の枕がどうしても合わないときは、変形型も視野に入れましょう。

枕の大きさ

枕の大きさは一般的に3つのサイズに分けられます。
  • 小さめサイズ:約50×35cm
  • スタンダードサイズ:約63cm×43cm
  • 大きめサイズ:約70×50cm

スタンダードサイズは、日本人の体格に合わせて作られた標準的な寸法です。この大きさは男女両方の体型に適合するよう設計されており、一般的な布団のサイズとも調和がとれています。

標準サイズであるため、デザインや素材の異なる様々なカバーを見つけられます。 最近人気を集めている快眠枕や機能性の高い枕(例えば低反発ウレタンフォームを使用したものや、高さ調整が可能なタイプ)も、ほとんどがこの63×43cmという標準的なサイズです。

しかし、肩幅の広い男性はこれでは狭いこともあるでしょう。肩幅に対し枕が小さすぎると寝返りが十分に打てません。枕が小さすぎると収まりが悪く、身体がこわばってしまいます。この場合、枕はどちらかといえば大きめがおすすめです。

なお、枕の幅を確かめる目安は、肩が枕の幅からはみ出ないかどうかです。枕を購入する際は、自分の肩幅が余裕を持って収まるかどうか、サイズを確認するようにしましょう。

子どもの枕はどう選ぶ?

子どもは大人と比較して汗の量が多く、寝ているあいだにも大量の汗をかく傾向があります。そのため、子どもの枕選びでは洗濯可能なタイプを選ぶのがおすすめです。

定期的に洗濯することで、汗や皮脂による雑菌の繁殖を防ぎ、清潔で快適な睡眠環境を維持できます。衛生面で配慮することは、子どもの健やかな睡眠のために大切な要素です。

子どもの身体は日々成長しており、体格や頸椎弧も徐々に変化します。中材(なかざい)の量を調整できる枕なら、子どもの成長に合わせて最適な高さを保てます。

必要に応じて中材を追加したり減らしたりすることで、常に子どもの体格に合った快適な寝姿勢を維持でき、健やかな成長をサポートできるでしょう。これなら頻繁に枕を買い換える必要はなく、経済的にもおすすめです。

ただし、枕の寿命は3〜5年と言われています。子どもはよく寝返りを打つので寿命が短くなる傾向にあります。成長だけでなく、枕のへたり具合でも買い換えを検討してください。

なお、子どもの成長は女子が13歳前後、男子の場合が17歳前後で一度落ち着きます。オーダーメイドの枕を作りたいという場合は、それ以後に作るようにしましょう。

枕の選び方は性別や年齢によって変えよう

ベッドと枕

枕の選び方は、性別と年齢によって大きく異なります。男性は頸椎弧が深く、女性は比較的浅い傾向にあり、子どもはさらに浅くなります。

そのため、快適な睡眠のためには、それぞれの性別・年齢・体格に合わせて、適切な高さ・素材・大きさの枕を選ぶことが重要です。

最期に今回の記事をまとめてみましょう。

  • 枕は体格によって適した形が違う
  • 男性と女性では適した枕の形が違う
  • 男性は高めの枕、女性は低めの枕がおすすめ
  • 子どもの枕は成長に合わせて買い替えよう
  • 身体にぴったりと合った枕はオーダーメイドがおすすめ

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...