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意外と知らない寝具の歴史!布団はいつから使われていた?

寝具の選び方

意外と知らない寝具の歴史!布団はいつから使われていた?

#掛け布団

毎日寝るために使っている寝具。シーツを変えたり、寝具そのものを変えたり、どれを使おうかと調べたりすることもありますよね。

しかし、意外と寝具の歴史を知っている方は少ないです。少ないと言うより、ほとんどいないと言っても過言ではないでしょう。

今回は、意外と知られていない寝具の歴史を紐解いていきます。この記事を読めば、今以上に睡眠への関心が高くなりますよ!

1.毎日寝ている寝具の歴史は意外と知らない

毎日寝ているのに寝具のことってあまり知らないですよね。特に寝具の歴史なんかは、どこで習うわけでもないので知らないままという方も多いです。

今では様々な素材の寝具があり、羽毛や綿など好みやシーンによって使い分けることができます。最近ではウォーターベッドもありますよね。

しかし綿なんかは、もともとは衣類として利用する事が目的とされていました。寝具に使うということは極めて稀な事だったのです。そういったことを知ることにより、寝具への意識が少しでも変わるかもしれません。

2.世界の寝具の歴史はどうなっている?

疑問を持つ女性の写真

実は世界的に見ると、寝具の明確な起源は分かっていません。相当昔から使われていたと考えられてはいますが、確たる証拠がないのが現状です。

推定されるもので言うと、今から約77,000年前の中期石器時代に南アフリカの遺跡で、葉を切り取ったベッドと推定されるものが作られていました。昔のベッドなので、単純に寝心地を良くすること以外に、虫よけという目的もあったと考えられています。

現在のようなベッドに近くなったのは、約5,200年前のエジプト文明が初めだと考えられています。

多くの埋葬品や壁画によって形が確認でき、ヘッドボードはなくフットボードのみでした。また、枕はこの頃には使われていなかったようです。世界の寝具の歴史を振り返ると、かなり前から寝具があったことが分かりますね。

3.寝具の歴史は長い!日本最古のベッドは奈良時代から

和室での布団、座布団、ゴザの写真

日本での寝具の歴史は奈良時代から始まります。日本最古のベッドは、今から約1,600年前の天平勝宝8年に納められたものです。使っていたのは、聖武天皇だそうで今では御遺愛の品として東大寺に献納されています。

至ってシンプルで、台の上にゴザのような物を敷いて使っていたのではないかと推測されています。

ちなみに昔の日本では、今で言う敷布団のことを「むしろ」と呼んでいました。素材は藁(わら)や萱(かや)などがメインに使われていたとされており、形状は今のゴザと大きく変わりはありません。

日本における寝具の始まりは奈良時代ですが、そこからどういった歴史を歩んできたのでしょうか。早速見ていきましょう。

3-1.昔は身分の高い人も畳で寝ていた

ノートを持つ男性の写真

昔は今のようなフワフワの布団はなく、畳が使われていました。

今もある日本最古の畳は、奈良の東大寺正倉院にある、「御床畳」(ごじょうのたたみ)です。先述したように聖武天皇が使用していました。ただ、1枚だけでは薄いため、数枚重ねて使っていたとされています。そう考えると、今の布団って快適ですよね。

平安時代になると、八重畳(やえだたみ)というものが登場します。『古事記』や『日本書紀』にも記されており、畳を何枚も重ねて厚みが出るようにしてあるのです。

畳を重ねていたと聞くと、豪勢な感じに思えますが、今のように厚みのある畳はなかったため割と薄かったみたいですね。今では考えられませんが、身分の高い人も畳の上にそのまま寝そべっていたようです。

3-2.戦国・江戸時代に布団が登場!

戦国時代の男性の写真

戦国時代になると、綿が普及し始め布団にも使われるようになりました。

掛け布団は、その日着ていた着物をかけて寝ていたのも特徴。また、寝るときは裸になるのが一般的でした。この頃の寝具を夜着(よぎ)と呼び、綿が着物のような形の物に詰めらて使われていたそうです。肩まで包まれるので温かく、だいぶ睡眠が快適になりましたね。もちろん、使えるのは限られた人のみで、一般の人には手の届かない物だったようです。

ちなみに今でも東北の方では使われていたりします。

3-3.庶民に普及したのは明治時代ごろ

江戸~明治ごろの写真

そんな高級な布団が一般庶民に普及し始めたのは、明治時代頃。綿の価格も下がり、一気に流通し始めました。普通の布団に加え、こたつ布団が全国的に広まったそうです。暖房なんかも当然なかった時代なので、暖房の代わりとしても活用されていたというわけですね。

しかし、布団は一般的でなかったため、カビが多く発生。そんなカビの対策として、押し入れに布団を入れるという習慣ができたようです。この頃には布団屋も登場し始めました。庶民にも流通し始めたとはいえ、まだまだ高級品であることに変わりはなく、泥棒の標的になっていたとの記録もあるようです。

このような寝具の歴史を乗り越えて、徐々に安価になり、現在の布団へと進化してきました。

4.寝具の歴史はベッドだけじゃない!枕にも歴史がある

布団を敷く女性の写真

寝具の歴史はベッドだけではありません。枕にも当然あります。こちらも明確な起源はないものの、かなり前からあったのではないかと考えられています。

では、どんな歴史があるのか見てみましょう。

4-1.枕の明確な始まりは分かっていない

一説によれば、旧人のときに既にあったという説もあるのです。というのも枕に関しては寝ている際に、腕を頭の下に置いたり、誰かの膝の上に頭を乗せたりしたのが始まりだと考えられるため。ゴツゴツした地面に、そのまま頭を置くというのには違和感があったのかもしれないですね。

ただ、どの説も明確な証拠はなく、はっきりしたことは分かっていません。

4-2.サイズや素材など変化は多かった

寝る女性の写真

枕の歴史は形や素材などの変化が多く、丸い形の枕や四角い形の枕などがありました。サイズも頭がピッタリ乗るくらいの枕や、ちょっと大きめのものまであったとされています。

実際に八重畳を布団にしていた頃には、小さめの八重畳を枕として使っていたというような記述もあるみたいですね。

現在の形になり普及したのは、わりと最近の昭和40年頃だとされています。

寝返りをしても問題ないように、大きめの枕が主流です。最近では大きさはもちろん、丸洗いのできる素材の枕や通気性に優れた素材の枕まで多くの種類があります。

また、高さも自分にあったものを選ぶのが大切ですね。枕の選び方について解説している記事もあるので、良かったら見てみてくださいね。

枕の選び方は性別や年齢によって変わる!自分に合う選び方を解説

5.寝具は高価だった?歴史を遡ってみよう

歴史のある街並みの写真

先述しましたが、寝具はもともと高価な物で、一般庶民には到底手の届かない物でした。

日本での始まりも聖武天皇が使ったとされており、寝具自体の歴史は長いものの、一般庶民にとってはここ最近の出来事なのかもしれません。初期の八重畳などは、価格という概念がなく、王朝貴族が贅を尽くして作った豊かさの調度具でした。いくらで売っているというわけではなく、わざわざ作らせたということですね。

もともとは畳のようなものだった布団は、戦国時代にようやく綿が使われるようになりました。しかし、綿は出回る量も少なく、かなり貴重な物。当然名のある大名などしか使うことはできなかったそうです。

1両が現在の30万円だったとされる時代に、この夜着は30両以上で取引がされていました。つまり、夜着は約900万円もしていたことに。それぐらい高価な物だったのでしょう。どうりで庶民には手が付けられないわけです。

そう考えると、布団が当たり前にある今は幸せですね。

まとめ:寝具の歴史はかなり昔からあった

寝具の写真

世界的に見ると、寝具の歴史はかなり前からあるということが分かりました。日本での寝具の歴史も長いですが、布団が流通したのは案外最近のことでしたね。

最後に今回の記事をまとめておきましょう。

  • 世界的には寝具の歴史は約5,200年前のエジプト文明が初めだと考えられている
  • 日本では奈良時代にベッドのような物が伝わってきた
  • 戦国時代までは貴族も畳に寝ていた
  • 戦国時代になると綿の布団のようなものが登場
  • 明治から一般庶民にも広がり始めた

意外と知らなかった寝具の歴史。今では考えられないような材質や価格だったことには驚きましたね。昔の人から見れば、選びきれないほどの寝具がある現代は夢のような世界でしょう。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...