何かを疑問に思っている男性

ショートスリーパーとは?睡眠時間の特徴や偉人・有名人の事例をご紹介

睡眠コラム

ショートスリーパーとは?睡眠時間の特徴や偉人・有名人の事例をご紹介

#快眠・安眠 #睡眠

「偉人にはショートスリーパーが多いって聞くけど本当?」「偉人はどうやって眠っていた?」上記のような疑問を持ったことはありませんか?たしかにショートスリーパーになれたら自由な時間が増えるので、憧れる方もいるようです。偉人は寝る時間が少ない分、活動していたから功績を上げられたのでは?という気持ちもわかります。

しかし、実際にショートスリーパーの方はほとんどいません。昔の偉人は、睡眠時間は短かったと聞きますが、本当にショートスリーパーだったのでしょうか?

今回は、ショートスリーパーの特徴や睡眠時間とともに、社会的に成功した偉人には本当にショートスリーパーが多かったのか、偉人がとっていた睡眠方法をご紹介します。

ショートスリーパー(短時間睡眠者)とは?

目覚まし時計と女性

ショートスリーパーとは「短時間睡眠者」と呼ばれ、短い睡眠時間でも問題なく生活ができる人のことです。ここではショートスリーパーの定義や、要因を解説します。

ショートスリーパーの定義や睡眠時間

ショートスリーパーとは、通常の睡眠時間よりも短い睡眠時間で十分な休息が得られる人のことを指します。

一般的に、夜間の睡眠時間が平均6時間未満であるにもかかわらず、日中の眠気や疲労感などの健康上の問題がない方がショートスリーパーと定義されます。

ショートスリーパーになる要因

ショートスリーパーになる原因は明らかにされていませんが、遺伝的によるものと考えられています。ショートスリーパーは、睡眠に関連する特定の遺伝子変異を持っており、その変異によって睡眠時間が短くても健康を維持できると言われています。

また、脳の神経伝達物質の働きや、体内時計の調整機能にも個人差があることが影響しているようです。

一方で、不眠症やうつ病、身体の病気、治療薬の影響など、様々な要因で睡眠時間が短くなる場合もあり、真のショートスリーパーとは区別する必要があります。

カリフォルニア大学の研究グループの研究によれば、ショートスリーパーの割合は10万人に約4人ととても少数派です。日本人では5〜8%がショートスリーパーと言われています。

ショートスリーパーの特徴

ストレッチをする女性

ショートスリーパーは6時間未満の睡眠でも眠気を感じず、日中は精力的に活動する傾向があります。また、カリフォルニア大学サンフランシスコ校が2019年8月に発表した研究結果によると、ショートスリーパーは一般の人と比べて、同時に複数のことをすることが得意だとわかっています。

つまり、ショートスリーパーは睡眠時間が短いにもかかわらず、活動的で集中力も高いという特徴が見られます。下記では同じ睡眠に関わる不眠症やロングスリーパーの違いを詳しく解説します。

ショートスリーパーと不眠症の違い

ショートスリーパーと不眠症は、短時間しか眠らないという点で共通していますが、大きな違いがあります。ショートスリーパーは体質的に6時間未満の睡眠でも日中の活動に支障がなく、むしろ精力的に行動できる傾向にあります。

ショートスリーパーには以下のようなタイプが挙げられます。

  • 睡眠時間が6時間未満であっても、目覚まし時計を使わずに自然に目覚め、日中の眠気を感じない
  • 休日でも長時間の睡眠を必要としない
  • 短い睡眠でも創造性や頭脳、行動力などに影響しない
  • 生まれつきの体質で、小児期や若年期から睡眠時間が短い
  • 仮眠やうたた寝をしたことがない

一方、同じく短い睡眠時間で「不眠症」と呼ばれる症状もあります。不眠症は入眠困難や中途覚醒、早朝覚醒などの睡眠障害で、日中の不調を引き起こす病気です。

ショートスリーパーは本人が必要とする睡眠時間を取れているのに対し、不眠症は睡眠の質や量が不足しているのが大きな違いです。

なお、厚生労働省のe-ヘルスネットによると、「不眠症が慢性化すると医療機関で適切な治療を受けなければ回復が難しい」とされています。

ショートスリーパーとロングスリーパーの違い

ロングスリーパーは、一般的な睡眠時間よりも長い10時間以上の睡眠を必要とする体質を持つ人です。ショートスリーパーと同様、原因は明確ではありません。しかし、遺伝的な要因が関係していると考えられています。

ロングスリーパーは睡眠障害のカテゴリに分類されますが、必ずしも病気とはいえず、長時間眠っても日中の眠気や疲労感がない場合が多いのが特徴です。

また、ショートスリーパーは社交的な面があるのに対し、ロングスリーパーは内向的な性格が多く、常に心配ごとを抱えやすいと言われています。

ロングスリーパーに関して詳しく知りたい方は下記を参考にしてください。

>>実は自分もロングスリーパー?特徴や原因、診断方法と治し方について

ショートスリーパーの寿命や健康への影響は?

砂時計

通常の人は睡眠時間が5時間でも寝不足を感じ、それが続くと睡眠障害を引き起こしてしまいます。しかし、真のショートスリーパーは、たとえ3〜4時間であっても朝すっきりと目覚められ、健康への影響はないとされます。

ショートスリーパーに健康への悪影響が見られない理由は、「生まれつきの体質」を持っているためです。ショートスリーパーは特有の遺伝子変異により、6時間未満の短い睡眠時間でも目覚めがよく、日中の眠気や精神機能への影響がないのが特徴です。

ショートスリーパーの場合は睡眠の質が高く、体内時計が適切に機能しているため、健康や寿命のリスクが生じにくいとされています。

偉人にはショートスリーパーが多いというのは本当?

多くの方が気になるのが、偉人にはショートスリーパーが多かったというのが本当かどうかです。
ショートスリーパーであれば活動時間も多く、その分やれることが多くなります。そのため、人より功績が上げられ、社会的に成功するのは当然と考える方も多いのではないでしょうか。

結論から述べると、偉人には夜の睡眠時間が短かった人が多いと言われています。しかし必ずしもショートスリーパーとは限りません。

偉人にまつわるショートスリーパーの話は多くありますが、実際に確証が得られるものはほとんどありませんでした。

ショートスリーパーとして有名なナポレオンも、最近の研究で実は分割して睡眠をとっていたという説があります。

調べれば調べるほどおもしろい偉人たちの睡眠習慣。昔の偉人と比較しつつ、最近の偉人たちの睡眠を見ていきましょう。

偉人たちの睡眠時間を見比べよう

偉人たちの睡眠時間が実際に、どのくらいだったのかを昔といまで見比べてみましょう。昔の偉人で、睡眠に関してのエピソードで有名なのはナポレオンや発明家エジソンなどが挙げられます。

現代の偉人といえば、Amazon創設者のジェフ・べゾス氏も取り上げられています。果たして結果はどうなのか、気になるところです。

それでは早速見ていきましょう。

  • 革命家「ナポレオン・ボナパルト」
  • 発明家「トーマス・エジソン」
  • 芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」
  • Amazon創設者「ジェフ・べゾス」
  • Microsoft創業者「ビル・ゲイツ」
  • 天才起業家「イーロン・マスク」
  • お笑い界の大御所「明石家さんま」

革命家「ナポレオン・ボナパルト」:3時間

フランスの革命家であるナポレオン・ボナパルトは3時間睡眠だったことで有名です。少ない睡眠時間にすることで活動時間を増やし、あらゆることをこなしていたという努力家として有名です。

「足りない分は馬に乗りながら寝ることで補っていた」という逸話もあります。

さらに近年の研究によると3時間睡眠の他に昼寝をしていたこともわかっています。先述した馬のうえでの仮眠をはじめ、会議の合間やお風呂などで細かく睡眠をとっていたそうです。

つまり、1日の睡眠時間は3時間以上ということになります。

1日のトータルの睡眠時間がわからないので、ショートスリーパーかどうかの断言はできませんが、実際は、夜間の睡眠以外にも仮眠を取るなどして、睡眠を分割していただけなのかもしれません。

発明家「トーマス・エジソン」:4時間

発明王として知られるトーマス・エジソンもショートスリーパーだったとされています。「4時間以上睡眠をとると気分が悪くなる」といっていたことから、睡眠時間は4時間以下だったようです。

しかし、ナポレオンと同様に昼寝をとっていたという説もあります。エジソンの場合は1〜2時間程度の睡眠を複数回とっていて、足りない分を補っていたそう。

そう考えると、先ほどの言葉は「続けて4時間以上は眠れない」という意味だったのかもしれません。毎晩のように徹夜をして研究をしていたエジソンは、こうして睡眠をとっていたとされています。

一般的な考えでいくと不思議な睡眠方法ですが、実際に同じような人がいるのは事実です。こちらも睡眠を分割してとっていたようです。

芸術家「レオナルド・ダ・ヴィンチ」:90分

最後の晩餐で知られるレオナルド・ダ・ヴィンチもショートスリーパーとされています。

その睡眠時間はなんと90分!

ここにきて最短の時間です。おもしろいのが、一気に90分の睡眠をとるのではなく、4時間ごとに15分程度の睡眠をとっていたという点。

1日に24時間なので、15分×6=90分となります。

とても少ない時間ですが、果たして本当にこのような睡眠時間で足りたのでしょうか。これで健康に影響がなかったのであれば、真のショートスリーパーかもしれません。

しかし、通常は15分程度の睡眠は、一時的な疲労を回復するための仮眠にすぎません。

これが仮眠であれば、「パワーナップ」という仮眠方法と考えられます。パワーナップについては後ほど説明します。

Amazon創設者「ジェフ・べゾス」:7時間

昔の偉人はショートスリーパーが多かったようですが、現代の偉人はどうでしょう。

もはや生活の一部といっても過言ではないAmazonの創設者のジェフ・べゾスは7時間睡眠。22時には寝て、5時には起きるという典型的な早寝早起きのリズムです。

ここにきて一般的な睡眠時間になりました。とあるインタビューでも8時間の睡眠の必要性を述べており、ショートスリーパーではないようです。

しっかりと寝て、しっかりと働くことが成功の秘訣なのでしょう。

Microsoft創業者「ビル・ゲイツ」:7時間

Microsoft創業者のビル・ゲイツもジェフ・べゾス氏同様に7時間睡眠です。

0時前後には寝て、7時くらいに起きているようです。早寝ではないですが、しっかりと睡眠時間は確保できています。

Microsoft創業時は人一倍働いており、周囲から健康状態を心配されるほどでした。

しかし、7時間睡眠は一般的な睡眠時間です。ビル・ゲイツ氏がいつ睡眠の重要性に気付いたのか、定かではありませんが、しっかりと寝ていることがわかります。

天才起業家「イーロン・マスク」:6時間

世界で天才起業家と言われているイーロン・マスクの睡眠時間は6時間程度でした。

先述した2名に比べるとやや短いようです。就寝時間は午前1時で7時には起きるというリズムです。

ただ、イーロン・マスクは睡眠時間こそ長くはないものの、寝る前の数時間前からはカフェインの摂取を控えるようにしていると言われています。

そのため、質のよい睡眠を確保でき、6時間でも疲れがとれるようです。徹底した管理をして、時間を最大限活用し、理想的な生活リズムを維持しているのかもしれません。

マスク氏は睡眠が重要だと考えており、多忙ながらも睡眠時間の確保をおこなっています。徹底した自己管理術は、見習うべき点でしょう。

お笑い界の大御所「明石家さんま」:3時間

世界の偉人に目を向けてきましたが、日本にも偉人はいます。お笑い界の大御所、明石家さんまさんは3時間睡眠をすることで有名です。

若いころから、3時間睡眠でもなんら支障はないとのことです。

これで、睡眠時間が十分なのであればショートスリーパーかもしれません。周囲にはさんまさんの寝ている姿を見たことがあるという人はいないそうです。

なんと実の娘であるIMALUさんでさえも「寝ているところを見たことがない」というほど。

3時間以外に仮眠はとっていないのか、本当にショートスリーパーなのか気になるところです。

偉人たちが実践した仮眠方法をご紹介!

現代の偉人は比較的睡眠をしっかりととる人が多く見受けられました。一方で昔の偉人は睡眠時間が短かったとされている人物が多くいますが、実際は昼寝をして調整している人も多いことがわかります。

しかし、昼寝と言いつつも、ついつい寝すぎてしまうという経験はありませんか?

そこで、偉人たちが実際にやっていた仮眠方法をご紹介します。

パワーナップ:15~30分程度の睡眠

仮眠方法の中に「パワーナップ」という方法があります。

パワーナップとは15〜30分程度の仮眠をとることです。 なお、レオナル・ド・ダヴィンチの15分睡眠が、仮眠だったのであればパワーナップだったと考えられます。

アメリカ航空宇宙局(NASA)では、26分間の仮眠をとると、パイロットの能力が30%以上も上がることが報告されています。※1

パワーナップを導入することで仕事の効率が上がることが分かっており、GoogleやApple、Microsoftなどの世界的企業では、オフィスに仮眠スペースを設けたり、睡眠装置を採用したりする企業も増えました。

仮眠には、一時的に「眠気」や「疲労感」を取り除く効果があります。 午後の仕事効率を上げるためにも、お昼休みにぜひパワーナップを試してみてはいかがでしょうか。

マイクロナップ:数十秒~1分の睡眠

「マイクロナップ」はパワーナップよりも短い数十秒〜1分程度の仮眠を指します。

仮眠というには短い気もしますが、目を瞑るだけでスッキリした経験のある方は多いのではないでしょうか。一時的に目からの情報を入れることをやめるだけでも、脳は回復します。

「パワーナップをするほどの時間はないけど、疲労感を軽減させたい」というときにおすすめです。

また、電車やタクシー移動などの短い時間でもできるので、スマートフォンの代わりにマイクロナップをしてみるのもよいでしょう。

マイクロナップにより、1分でも目を瞑ることで、リフレッシュ効果や落ち着きを取り戻す効果が期待できます。

ホリデーナップ:90分程度の睡眠

「ホリデーナップ」は時間のある休日に余分に眠るという方法です。

医学的に寝だめは効果がないとされているものの、足りない睡眠時間を補うことはできると考えられています。つまり、睡眠は「貯金はできない」が「借金は返せる」のです。上述したエジソンはこれに近い睡眠方法だったのかもしれません。

ただし、寝すぎてしまうと生体リズムが乱れてしまうため、多くても2時間程度に留めておきましょう。

休日に平日より2時間以上寝てしまう場合は「睡眠負債」が溜まっているとされています。

睡眠負債は、返済するのに2週間以上時間がかかることが知られているので、平日の睡眠時間を増やす努力をしましょう。

無理に睡眠時間を短くするのはよくない

ベッドで横になる女性

短時間の睡眠でも生活に影響のないショートスリーパーは、現代ではきわめて少ないと考えられています。

ショートスリーパーは生まれつきの体質で、小児期や若年期から睡眠時間が短いにもかかわらず、日中の眠気などの健康上の問題がない人を指します。しかし、このような人はとても稀です。

そして「睡眠時間を短くすればショートスリーパーになる」というわけではありません。無理に睡眠時間を短くしてしまうと、必要な睡眠量が不足し、パフォーマンスを下げる原因になってしまいます。

睡眠を短くして、活動の時間を増やせるショートスリーパーに憧れる方も多いかもしれません。しかし、多くの人は睡眠時間を短くすることで、かえって疲労感や集中力の低下を招いてしまいます。

短い時間しか睡眠時間を取れない方は、睡眠の質を高めることが必要です。睡眠時間を無理に短くするのではなく、質の高い睡眠を心がけましょう。

【参考文献】
※1 パワーナップ(積極的仮眠)で人生のパフォーマンスが上がる ※2 アインシュタインやエジソンも実践。昔ながらのパワーナップ(仮眠)術

短い時間でも睡眠の質を高めたいなら!おすすめアイテムをチェック

ブレインスリープでは、お客様の睡眠に関するご要望やお悩みに合わせて、様々な寝具を開発しています。その中から、おすすめアイテムの特徴やポイントをご紹介します。

一覧に戻る

コメントを残す

コメントは公開前に承認される必要があることにご注意ください。

PICK UP

RELATED ARTICLE

関連記事

PICKUP ARTICLE

編集部おすすめ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...