小泉 正太さん

逆転の発想から生まれた”マグマスパ”〜利用者年間200万人越えの革命的装置〜

逆転の発想から生まれた”マグマスパ”〜利用者年間200万人越えの革命的装置〜

#SLEEPHACK #特集

睡眠の質をあげる上で大事な「深部体温」というキーワードを軸に、革命的装置「マグマスパ」で年間200万人以上の人たちの体温を上昇させてきた株式会社マグマスパジャパン代表の小泉さんにお話を伺ってきました。

■経歴

小泉 正太 / 1969.02.24生まれ

経歴
1987年 都立大島南高等学校海洋学科卒業
1988年 共同経営者とフィットネスアパレルメーカー 株式会社ウエザーコーポレーション設立
1993年 株式会社ウエザーコーポレーション代表取締役社長就任
2003年 株式会社ウエザーコーポレーション株式譲渡・代表取締役社長辞任
2004年 オリーブスパ設立出資メンバーとして参画
2005年 株式会社インタースパ取締役副社長就任
2005年 株式会社マグマスパジャパン設立
2009年 マグマスパスタジオinsea広尾本店オープン
2010年 insea麻布十番店オープン
2011年 insea六本木店オープン
2010年 株式会社ヒューマンデザイン代表取締役社長就任
2011年 ポパイパーソナルクラブ麻布十番店オープン
2014年 株式会社ホットステップ代表取締役社長就任
2016年 マグマスパ装置日本国で特許許諾
2017年 社団法人冷え性改善協会理事長就任
2018年 マグマスパ装置中国国内特許許諾
2019年 マグマスパ装置米国国内特許許諾

マグマ開発の背景

小泉正太さんが話してる写真

+1℃のエネルギー環境

弟のガンがきっかけで色々研究した結果生み出したのが、この体温を上げる事業です。ガンの対処法は多岐に渡りますが、その中でも「体温」に注目したのは、人間の自然治癒力の源が”体温”だったというところに繋がります。

ある時、体温が+1〜2℃の状態(38〜9℃台)が免疫力を司るパワーをMAXにしていると知りました。「え、じゃあうちの弟が抗がん剤を打ち続けて元気になり続けるためには、直腸温(深部体温)をあげればいいじゃないか!」となりました。

そこで弟の深部体温を上げるにはどうしたらいいのかを考え、まずは自分の体で試しました。でも熱い風呂やサウナに入って体を温めても、直腸温は37.0~37.5℃にしかならず、体温+1℃まで上がらなかったのです。上がり切る前にのぼせる状態になってしまいました。

体を外部から温める方法がダメならば、他に人体という物質を温める方法は何か? と考えました。「…光で人間の体に熱を伝える方法はどうだろうか。地球に届く遠赤外線(太陽光戦)の力を強めることができれば…!」

でも普通に太陽の光を浴びて体温が1℃上がるわけがないのです。そこで、どこまで熱エネルギーを上げれば体温が1℃上がるのかを調べました。

それは、”41.25℃”でした。41.25℃以上のエネルギー環境を作り出せばいいのです。例えば、外部体温36.5℃を+1℃の37.5℃にしたいとしますよね?その36.5℃にプラス1℃にしたいということをXとするならば、このXに人間の筋肉・脂肪という抵抗値の3.75℃を足した場合、41.25℃になる。

熱エネルギーの分析、そして葛藤

小泉正太さんが話してる写真

その41.25℃という温度を出すためにはどうしたらいいのかを考えました。世の中の自然界にあるもので熱を帯びたものは、その熱を反射しています。

その中で最も反射効率の高いもので、炭やセラミックなどの物質がありました。その炭やセラミックが反射する力というのは、約80%あると言われています。

では、80%としたときに、41.25℃を出すには何度で温めたらいいのか。炭を50℃で温めたら、反射効率80%なので、40℃くらいの熱をエネルギーとして出すことになりますよね。つまり、52℃で温めれば、41.6℃になります。

単純に考えると、その52℃で温められている炭の上に人間を寝かせれば、41.6℃の熱エネルギーがもらえると思いますが、肌が炎症を起こしてしまう限界温度があり、うまくできませんでした。52℃で温めて我々の人体を晒しておいたら低温やけどになってしまいます。

人体には“46℃”という限界温度があります。これを越えると炎症を起こす可能性が高いということです。

■整理

52℃のエネルギー環境を作れれば、体温が1℃上がる41.25℃(41.6℃)を出せる。

→しかし、低温やけどする。低温やけどの限界ラインは46℃。

その46℃のエネルギー環境だと、36.8℃になってしまう。

→人体が+1℃にならないので意味がない。

溶岩プレートとの出会い

小泉正太さんが話してる写真

では、別の考え方で反射効率を高めればいいのでは?90%以上の反射効率をもつ物質であれば、人体に温かさを伝える熱エネルギーを放つのではという考えになりました。

しかし、希望の光は一旦途絶えました。 2ヶ月くらい、色々な研究をされている先生たちから少しずつヒントを頂いて、血眼になって調べた結果、遠赤外線の反射効率を90%まで含んだ物質はなく、事実として確認されていないという状況でした。

でも私は逆にその状況に燃えました。そうすると逆に世の中にあってもおかしくないと思い、誰も見つけていないなら自分で探し出してやると決意したのです。

そこから更に2ヶ月経って、夏になったときにある出来事が起きました。私が当時河口湖の畔に別荘を持っており、そこにBBQをする機材がありました。そのBBQ機材の中に、富士山の溶岩を切ってプレート状にしたものがあって、それを使うことになりました。

BBQの時の写真

知り合いの焼肉屋の社長がたくさんのステーキを持ってきてくれて、その場に30人くらいいて焼くことが大変になるから通常の鉄板も出して焼くことになりました。溶岩だと早く焼けないから、鉄板と溶岩の2つで分厚いステーキを一気に焼きました。そのときに、焼き方はレアがいいってリクエストが多かったので、先にレアを出すことになったのです。

鉄板で焼いている肉の表面(焦げ目)を見て、レアで焼けたと思い切ってみました。すると、鉄板のほうは良い感じの焦げ目で良い感じのレア具合でした。ということは溶岩のほうも良いと思い、食べやすく切りましたがレアではなく、しっかり焼けていたのです…! つまり、溶岩の場合は熱伝導が強いので、表面が焦げないにも関わらず、中はしっかり焼けていたのです。

それを人間の肌に置き換えると…「ちょっと待てよ…!!」って閃きました。富士山の溶岩の切ったプレートを検査に出してみたら、遠赤外線の反射効率が93.2%もありました。この高い反射効率があれば、41.25℃のエネルギー環境に届くだろうと確信しました。

次にどうやって温めたらいいのかという課題が出てきたので、とりあえず実際に富士山の溶岩がある樹海に行ってみることにしました。

樹海での写真

樹海にある溶岩の洞窟内は、外気より20℃以上温度が低いことがわかりました。しかも長い間ずっと染み込んでいる水分には溶岩のミネラル成分が溶けていたのです。

そこで、この富士山の樹海システムをひっくり返して温めたとしたら、どれだけ心地の良い環境になるのだろうかと考えました。

富士山の樹海は、溶岩から直接木が生えています。溶岩は水を含むとともに、木を成長させるほどのミネラルもあるということです。樹海で成長する過程で葉が落ちて、腐葉土になり、土となります。この循環は何千年前から森になっていないと成り立たない環境ですよね。全ては地球の中にある溶岩という物が形成した自然の営みなのです。この営みの仕組みを逆転させた装置が、このマグマスパなのです!

マグマスパ内は、常に湿度70%を保つようにしています。マグマスパの原理は、次のような順番となっています。

マグマスタジオの原理
  1. ヒーターが水を温める
  2. 水が水蒸気化する
  3. 温まって水蒸気化した水の分子は、最もミネラル成分を付着しやすくなる
  4. ミネラル成分を付着した水蒸気が、溶岩層を通って出てくる
  5. 純粋な温泉やミネラルウォーターとして分散されたものと同じものが充満する

だから、皮膚呼吸が楽なのです。これがサウナやヒーターで温めている空間とは全く違う理由です。

マグマスパについて

マグマスパの写真

ホットヨガは苦しい!マグマスパは心地いい!

マグマスパ装置の構造

この岩盤の下には約40種類近い「薬石」と言われている石の層が入っています。水晶やトルマリン、溶岩マリモとかの原石がこの中に敷き詰められおり、その下から水蒸気が出ています。

この溶岩プレートは、実際に富士山の麓にある溶岩をダイヤモンドカッターでひとつひとつ丁寧にカットして敷いています。つまり、これは全部富士山の溶岩です。実際に皆さんに横になってもらうとわかりますが、これは自然界からくる温かさです。つまり、”暑がらせているのではなくて温めて”います。

ここに20~30分居たら、汗が大量に出てきます。1時間で約1.5~2.0リットルの汗が出ます。ホットヨガは暑がらせるからずっといると苦しいですよね?加湿・加温のホットヨガは、加湿器を使いヒーターで空間を加温しているので、“暑がらせて”いて、マグマスパとは全然違います!マグマスパは、身体の体温を1℃上げるために作った装置なので内側から“温められている”という感覚になります。

どういう人が来ているの?

マグマレッスン後の5大効果

今ここに来て頂いている人は、すごく筋肉つけたいというよりは、大きな負荷をかけることなく、今の身体を維持したい人が多いです。 でも中は、ポジティブに痩せたいって思っている人もいるし、脂肪燃焼が2倍になることに惹かれてくる人もいます。

弊社はジャングルジムというセレブ御用達のジムにシステムを導入していて、以前あるテレビ番組に取り上げて頂いた際には、106kgの女の子を10ヶ月で52kgにしたという驚くべき結果となりました。こんな短い期間でできるのはマグマだけです!

人間はメンタルが保たないので、いかに短い期間でエネルギー代謝を上げるかが大事です。体温を上げるということが当たり前すぎて盲点になっています。

“動かない=豊かになった”と思っている現代です。現代では、日常生活で掃除・買い物・移動など身体を動かすきっかけ・要因、つまり“体温を上げる”きっかけが以前より少なくなってきているように思います。

「低体温は何からくるの?」 それは先進国の便利なシステムです。動かなくなったら筋肉使わない=低体温 になります。つまり、身体の不調の原因は自ら作っているということです。人類は体温低下(免疫低下)に向かって進化しています。でもインフルエンザなどのウイルスは年々猛威を振るっています。もうどうなるか目に見えますよね?

温度変化×睡眠

睡眠とのリンクは、マグマスパの装置による深部体温の上昇です。これを用いて、“深部体温(肛門から5cmくらいのところにある体内深部温度)=直腸温が1℃以上上昇する”というエビデンスを日本抗加齢医学会で発表しております。

深部体温が1℃下がることで、本当に良い睡眠になりますが、この1℃の落差を補うためには、ベースを適正体温に戻さなければいけません。そもそも不適正体温の場合に適正な睡眠をとれるわけがありません。 全ては“マグマ”に入ればいいだけです。なぜかというと、食・お風呂など色々なアプローチがありますが、一番深部体温にエネルギーを送れるのは”マグマスパ”です。

「大切なのは皮膚温度と深部体温の差を縮めること」 スタンフォード大学の西野先生も、睡眠の質を上げるには「深部体温の上げ下げが鍵!」と述べています。 出典:スタンフォード式最高の睡眠 P.131 深部体温の上げ下げが鍵!

上記のように深部体温が縮まる幅を作ることが大切です。その一つに入浴があり、今回のマグマスパなどがあります。

小泉さんの睡眠のこだわり

小泉正太さんが話してる写真

週1回の体温上昇

僕は週に一回、マグマスパでトレーニングを行なっています。ただもともと睡眠習慣は良く、爆睡します!昨日も21時に寝て4時に起きています。この睡眠時間(7時間)はブレないです。

例えば、22時に寝たら必ず5時に起きます。他には、お酒をたくさん飲んだり、肉などのこってり系を食べるのが好きで、日常的に低体温になりやすい生活を送っているので、きちんとマグマで体温管理をしています。

ドイツ生まれのヒーリング音楽

入眠時にハマっている音楽があります。 「Endel(エンデル)」というドイツ・ベルリン生まれの完全個人向け自動ヒーリング音生成アプリです。

Endel(エンデル) 左から、リラックスモード・集中モード・睡眠モード

左から、リラックスモード・集中モード・睡眠モード

App Storeの「Eldel」より

Endel(エンデル) / 快眠のためのヒーリング音アプリ “Endel” とは?

※youtube「avex other」チャンネルより

もともと寝付きが良く、寝ることに対してストレスはないのですが、さらに質を高めるために音でのアプローチを選びました。良い睡眠をとれないことは、良い人生を歩めないことと同じです。

最後に

ヨガをする写真

使命:人類の体温を上げていく

直接私が経営しているのはフランチャイズ含めて8店舗ですが、全国で導入している数は102店舗あります。そこまで広まった理由は自然の摂理を忠実に再現したからでしかありません。私の営業がうまかったとかは一切なくて、純粋に気持ちいいものを作っただけです。

爆発的に認知が広まっているわけではないのですが、実際に体感した人に喜んで頂き、それが口コミで広がっています。私はそれがとても嬉しいです。

「人類の体温を上げていく」これが私の使命です。常に体温維持できる環境を作っていき、人類に必要なものを世の中に広めていくことが私の仕事です。目標は、“莫大な利益よりも莫大な人数の低体温を治したい”です。

編集部の体験ログ

取材後、我々ブレインスリープ編集部も体験レッスンに参加させて頂きました! マグマスパスタジオinsea恵比寿店で、初心者でも簡単に試せる「マグマヨーガヒーリングデトックス」を体験してきました。

マグマヨーガヒーリングデトックスとは、「座りポーズを中心に行い、身体と溶岩プレートの距離が近くなるため、全身が温まりやすく、心身のほぐれ、デトックス効果が促される」というものです。

マグマヨーガヒーリングデトックス

結論、と・に・か・く、スゴい!!です。実際に体感するとわかりますが、身体の内側から老廃物が大量の汗とともに出てくる感じがすさまじいです。苦しいトレーニングは一切やっていないのに、こんなに汗が出ました。

Tシャツの汗の写真

体験してみて次のことを実感しました!

  • 溶岩浴が最高に気持ちいい
  • 身体の温まりが早い(他社のホットヨガと比べて)
  • 初心者でもわかりやすい説明があるから簡単にできる
  • 開始10分くらいで一気に汗が出てくる
  • 終わった後、肌がツヤツヤのピチピチになる

ちなみにパーソナルトレーニングスペースは、裏口から入ることができ、受付やエントランスで他の利用者の方と目を合わせることもありません。間違いなく効果を実感できるので、ぜひ体験してみてください!

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...