田中大貴さん

徹底した寝室環境作りで”睡眠コンディション”を整える

徹底した寝室環境作りで”睡眠コンディション”を整える

#SLEEPHACK #特集

SLEEP HACK第4弾は、「すぽると!」や「とくダネ」などのテレビ番組でアナウンサーとして活躍され、その後独立し、今は企業の代表としてビジネスで挑戦の幅を拡げられている田中大貴さんにお話を伺いました。

アスリート・アナウンサー・ビジネスマンなど様々な視点で”睡眠”に紐づくお話をして頂き、非常にユニークかつ熱い内容になっております!

――睡眠の質を上げるためにされている事はありますか?

身体を乾燥させないというのがすごくありますね。やっぱり喉への影響もありますし、今でも15年間ぐらいはマスクをして寝ています。加湿器ももちろんしていますし、ホテルとか行った時はお風呂にお湯を貯めてドアを開けたり。身体の体温を維持するというのは意識しています。

本当に身体が冷えているなと思う時は”日サロ”に行きます。喉のためにも睡眠のためにも。そして代謝を上げるために1時間は湯船に入るようにしています。あと身体が汗をかいて代謝が上がった後にはすぐに寝ないようにしてますね。というか眠れないですよね(笑)。

■経歴
兵庫県立小野高校、慶應義塾大学を卒業後、2003年にフジテレビに入社。

▼学生時代
高校・大学時代は野球部に所属し、高校時代は兵庫県選抜選手、県優秀選手賞を受賞。大学時代は東京六大学でプレー。4年春に本塁打王。松坂世代。

▼アナウンサー時代
情報番組、スポーツ番組を中心に、朝の情報番組「情報プレゼンターとくダネ!」ではプレゼンター・アシスタント、「すぽると!」、「スポーツLIFE HERO'S」ではスポーツキャスターとして約10年近く担当する。

スポーツ実況では野球の日本シリーズ、ボクシングやバドミントン中継を担当。これまで多くの報道、スポーツの現場にて、のべ1,000人を超えるインタビュー取材を行ってきた。

2018年4月末にフジテレビを退社。

▼現在
メディア出演の他にスポーツ誌Number、ベースボールマガジンの連載など執筆活動も手掛ける。そしてスポーツを中心としたビジネス展開も積極的に行っている。

テレビ局のアナウンサー時代

アナウンサー時代の生活リズムとは

アナウンサー時代の生活リズム

――なぜアナウンサーになろうと思ったのですか?

大学の野球部だったんですけど、オフの期間にみんなでフジテレビに採用試験を受けに行き、最終的に僕が奇跡的に選ばれたのがきっかけです。採用試験は7〜8回あり、その中で僕なりに、朝、ゆりかもめでお台場に向かう中で、アナウンサーという職業と自分が今までやってきた事がリンクする部分がないか考えながら行っていました。

自分はいつも野球チームの選手側と監督チームの間に入って架け橋になっていました。監督の思いをチームに伝える。選手たちの考えを監督に伝える。テレビのアナウンサーという仕事も、テレビを作る側の人間と視聴者の間に入って、作り手の想いを視聴者に伝える。そして視聴率を上げる。そうなれば両方の間を繋いだという事で喜びは倍ですね。

野球もそうで、「自分が生きてきた過程とよく似ていることをこれからやるかもしれない」というのを自分の中の軸として採用試験でプレゼンをした時に、それが納得していただけたひとつの要素だったと思います。

なぜアナウンサーになろうと思ったのか

――野球をやられていたご経験からスポーツ番組を多くやられていたのですか?

そうです。でも初めは奥様向け番組がメインでした。プロ野球選手になりたくてずっと大学までやっていたんですけど、もし仮に野球を失ったとしても、野球の現場には行くことができる職業なので、最終的にフジテレビに採用試験を受けに行こうと思ったんです。

それでスポーツ番組やスポーツキャスター、スポーツ実況をやりたかったのですが、初めに担当した番組は奥様向け番組で、朝のワイドショーとかお昼の情報番組とか。スポーツとは真逆の位置にいて、スポーツの番組をしたいと思いながらも、朝のとくダネとかは10年近くやっていました。だから朝は4時ですよ。4時に起きて、4時15分には家を出るんです。起きてすぐシャワーだけ浴びてすぐ出て、迎えがきていて、お台場に4時半ぐらいに着きます。そこから2時間打ち合わせしてメイクしてリハしてオンエアというのをやっていました。

――朝のオンエア終了後も別のオンエアがあるわけですよね?

はい。なのでほぼ仮眠をとる人生ですね。朝のオンエアが10時に終わったら11時に午後の仕事に向けて一回仮眠をとります。アナウンス室にベッドが4つあるんですよ。そこで眠れるようになっているんです。

当時マニフレックスの方から連絡があって、「アナウンス室に仮眠室があるならそこのベッドをマニフレックスに変えませんか?」と総務に言いに行ったのを覚えています。なので、おそらく未だにマニフレックス社のベッドが一個使われているはずです。

マニフレックス社のベッド

20代や30代の時って、朝4時に起きるからといって7時間前とかには眠れないんですよね。なので結局は12時ぐらいになって4〜5時間だけ寝てオンエアをして仮眠をとって夜を迎えるという生活を繰り返していました。なのでオンエア終わってそのままゆりかもめに乗ると、寝ちゃって新橋まで行っても気づかず寝てるんですよ。それで駅員さんに起こされるとかはよくありました。

当時は働き方改革という概念がなかったので、月〜金で朝の番組やって週末は夜のスポーツ番組をやっていたので週に7回生放送というのを普通にやっていました。

仮眠の仕方によって変わるパフォーマンス

――仮眠される時に使う独自の方法などはありますか?

出来るだけ短く深く寝るということは意識をしています。長く寝るのもしんどいですもんね。3時間仮眠とってしまうと逆に次は身体が動かないので。また寝るときの格好は意識していましたね。やっぱりスーツや衣装のまま寝ると疲れるのでTシャツに着替えるとか短パンには着替えるとか靴下を脱ぐとか、出来るだけ体を弛緩させる、緩ませる、解放させるような状況で仮眠をとるというのを当時は意識していましたね。だから会社のロッカーはいろんなパジャマが入っていました。

あとは枕が共有だったりするんです。毎日お昼に枕カバーを変えにきてくれるんですけどそれ以降は1日変わらないので、寝心地を良くするような素材のタオルとかバスタオルとかはたくさんロッカー入れてましたね。

――テレビ局の方は寝れない状況の方も多そうですね…。

フジテレビの中にはカプセルホテルのようなものとか浴場もあるので1ヶ月もの間自宅に帰らない人もいるんです。あとはデスクチェアーとかを並べて寝ている方とかもいましたし、床で寝袋ひいて寝ている方もいましたし。

テレビって皆さんが家にいて休んでいる時に見るものなので、必然的に生活が逆になるんですよ。朝と夜、お出かけをする前の時間帯がみんな見るそうなので、典型的なサービス業です。

仮眠の仕方によって変わるパフォーマンス

――短い睡眠で頑張れるコツはありますか?

例えば神宮球場で18時にプレイボールの実況をするとなった時に、事前打ち合わせが終わる17時ぐらいからの1時間の使い方が大事で、まだお客さんが入っていない客席に行って15分だけ寝たりするんですよ。そしたらすごく頭がクリアになるんです。選手はパフォーマンスを出す前に有効として一回仮眠をとるんです

でも体がだるくなったりとか、一回体を寝かせてしまった後にバッとアドレナリンを出すことが正解なのかを西野先生に伺った時に、西野先生は「ほぼ高い確率で寝た方がいい。仮眠をとる方が絶対的にパフォーマンスが上がるというデータがある」「絶対に寝るべき」と言っていて腑に落ちました。やっぱりパワーを出す前に体を静めて休めるというのは大事なんだなと今でも思っています。

――アスリートの方で睡眠に着目されている方は少ないですか?

今はリテラシーがすごく高くなってきているので、寝る時間もパフォーマンスの一環という教育がようやく出てきた感じです。いろいろな所が睡眠という事をアスリートに促進し始めたのは良い文化なので。寝る時間に何をしているのかは大事ですよね。

僕らが野球をやっていた頃は全然無く、布団で雑魚寝で良いというような感じだったんですけど、今はちょっと変わってきていますよね。 眠りを小分けする事は出来ないと思うんですけど、とにかく小分けして集中力を上げるための睡眠という感じです。

アスリートの方で睡眠に着目されている方は少ないか?

――最近のリカバリーウェアの実感についてどう思いますか?

多分そこにも最終的にたどり着く時代が来ると思いますけどね。僕ら(朝番組の人間)は慢性睡眠不足なんですよ。朝5時6時よりも早く起きる人は絶対にどれだけ長く寝ても睡眠不足に感じると思うんです。だから「慢性睡眠不足」という言葉が流行っていて、オンエア中に寝ちゃう人とかナレーションブースで寝ちゃう人とか本当にいるんですよ。

サイクルというのは無くて、「一人時差生活」です。何時とかは関係なく、24時間365日「夜は何時に寝て…」というのは無いです。タイムテーブルやルーティンワークといという言葉を意識してると成り立たないんです。ルーティンは無い。ルーティンが無いのがルーティンと考えるようになってました。常に睡眠不足で常に時差を感じてましたね。

――人に見られる仕事ということで精神的に眠れないという事はありませんでしたか?

若手の頃はありました。今は体調を崩さないし肌もニキビできたりとかは無いんですけど、当時は頻繁に”風邪”をひいてました。肌が荒れたりで、身体には無理をしてましたね。

――アナウンサー時代のリズムと今のリズムは違いますか?

変わりましたね。オンエアの時間は絶対やってくるので、そこだけはルーティンなんですよ。でもその日の時間は不規則で、それをどう合わせていくか。例えば、「すぽると!」という番組であれば夜11時代に最大のパフォーマンスが出るように持っていかなければならないんです。人間の生活リズムで言うと一番疲れて寝ている時間なんですけど、その逆作業ですね。

朝の番組であれば、眠いですけど最大のパフォーマンスを出してしまえば、あとは疲れて寝てもいいんです。どっちをとるか。やっぱり寝ていないのは罪で、寝てないとパフォーマンスを上げるのは難しいです。寝てないと口も回らないですよ。

株式会社インフライトの代表としての想い

出来ることを並べる棚を作る

――株式会社インフライトとして独立するきっかけを教えてください。

ひとつはテレビ局のアナウンサーとしてやれることを一周して、それをクオリティ上げてもう一周しようという気に至らなかったことです。僕は幸せで10年ぐらいスポーツキャスターをやらせてもらってオリンピックにも何回も行かせてもらえたので一周できたと思います。

今度は自分が繋がってきた人と一緒にどういうイノベーションが起こせるかということに興味があったんですよ。ビジネス・企業・社会は、出会ったことで何を起こせるか、どんなビジネス体になるかとかを考えるものだと思っていて、僕の場合次からはそのチャプターに転じようというものが強かったです。

株式会社インフライトの代表としての想い

――株式会社インフライトの事業方針を教えてください。

スポーツのMCや実況ももちろんやっていますけど、メディアに来る前の段階の人たちがどうピラミッドを作り上げて行っているかというところに興味があります。オリンピックをやるとなった時に、オリンピックのキャスターは何度もやりましたが、オリンピックの組織側であるJOCやIOCと仕事をしたいと思ったんです。

プロ野球を実況するとなった時はプロ野球チームの運営を一緒にやりたいと思います。要はメディア側じゃなくて反対側に行きたいです。

――独立されたタイミングで苦労された点などはありますか?

独立する時に考えたのは、出来ないことを棚に並べるんじゃなくて、出来る事を棚に並べ続けて可能性を広げていこうとしか思ってなかったです。辞めたらどうしようとかマイナスの方に並べ始めると身動き取れなくなるので、基本的に出来ることを小さくてもいいのでたくさん自分の可能性の棚に並べていくことを考えて独立しました。

過去ではなくこれからの自分

――独立されていく中で接す方の変化などはありましたか?

僕らは最後のところしか今までは見てなかったんですよ。なのでどうやって自分に声がかかって実況するのかというプロセスをある程度しか知らなかったんです。でも最後どう作り上げてきたかというところにストーリーがあるので。

脱サラして変わった事は横たわれないなと思いました。要はゆっくり休んでいる時間はないなと。常に何かを生み出し続けなければならなかったりと思うようになりましたね。

――今後の活動展開を教えてください。

1番の目標は「アナウンサーやっていたんですか?」と忘れてもらえる事です。今はまだ「テレビで見ていました」とか言われることの方が多いんですけど、それがいずれ「昔フジテレビにいたんですか?」と言われるようになってくると、自分が今活動していることが先に立って、後から昔自分がアナウンサーをやっていたというルーツを知ってもらうぐらいになりたいなと思います

今はまだ独立して2年も経ってないですから、フリーアナウンサーみたいに見られますけど、最終的にはその部分がなくなって自分のキャプションが付くようになれば、こういう活動をしていて良かったなと思えると思います。

過去ではなくこれからの自分

田中さんの睡眠事情

パフォーマンスを上げるために睡眠を追求

――寝る前にスマホを操作してしまうことから寝付けない時などはありますか?

ありますね。僕の場合、寝付けない時は無理やり寝ないようにしています。携帯電話が仕事のツールである事は間違いないし、携帯電話で目覚ましも兼ねていますし、寝る作業の時も携帯電話はあるので、いかにスマートフォンとうまく付き合うかですよね。眠りの敵でもあるし味方でもあります。

パフォーマンスを上げるために睡眠を追求

――現在、睡眠の悩みなどはありますか?

今は移動が多いので、移動中にいかにうまく眠れるかですよね。飛行機の中、車の中、新幹線の中…。そこを西野先生に教えていただきたかったなと思います。

仕事もほとんどが移動の人もいるわけですよね。スポーツ選手も移動が多いですし。だから移動時間を睡眠にあてたいという人は多いと思うんですよ。移動中にうまく眠れるにはどうしたらいいか…。睡眠導入剤を使う方もいますもんね。無理やり寝かせるために。でも睡眠導入剤は使いたくないじゃないですか。だから今は試行錯誤中ではありますね。移動中にうまく眠れることもあれば全く眠れない事もあるので。外的要素もあるので永遠のテーマだと思います。それをうまく使える人はパフォーマンスが高いと思います。

本当はパジャマとかで寝れたら最高ですよね。でもそんな格好出来ないわけで。だから飛行機で長時間移動が多いという時は、スーツでもできるだけストレッチのきくスーツにするとか。一時期は着替えを持って歩いてましたね。できるだけ楽な格好で体を緩ませて移動して、向こうについてから着替えるようにしていました。

――最近睡眠について気になっている事はありますか?

“ベッドマット”ってすごく研究されてきていると思うんですけど、実際自分がどのベッドサイズでどの位置の高さなのか、ベッドマットや枕だけじゃなくトータルで何が合うのかすごく気になります。

あとは光をどれだけ入れるか。今は太陽と共に生活した方がいいと思って、カーテンを遮光にしてないんですよ。でも仮眠をとりたい時は真っ暗にしたいですし、何が合うんだろうなというのはあります。なので”睡眠と光の向き合い方”にもすごく興味ありますね。

さいごに

YouTubeチャンネル開設!

【チャンネル紹介】
あの伝説のスポーツ番組、すぽると!(フジテレビ)の編集チームがYOUTUBEアスリート専門チャンネルを開設!
スポーツアンカー田中大貴をメインキャスターに、豪華選手・関係者らとともに、ここでしか見られない貴重な映像、ここでしか聞くことのできない貴重なお話をスポーツを愛するすべての人にお届けします!

田中大貴のアスリートチャンネル【アスチャン!】

睡眠の質を高めるなら!おすすめアイテムをチェック

ブレインスリープでは、お客様の睡眠に関するご要望やお悩みに合わせて、様々な寝具を開発しています。その中から、おすすめアイテムの特徴やポイントをご紹介します。

ブレインスリープ ピロー

ブレインスリープピローイメージ画像

ブレインスリープの看板商品『ブレインスリープ ピロー』は、ベストセラー『スタンフォード式 最高の睡眠』の理論を基に、脳と睡眠研究によって開発されました。睡眠の質を左右する「黄金の90分」に注目し、脳を冷やすことで睡眠の質を高める枕です。

特徴1:オーダーメイドのようなフィット感で、首や肩が痛くならない

独自の3層構造が特徴。1番上のふんわりとした層が、自分の頭の大きさや重さに合わせて変化するため、オーダーメイドを超えるフィット感を感じることができます。
また、中心部分が1番柔らかく、左右にいくほど弾力が高まっている“9つのグラデーション構造”になっているため、仰向け・横向き・うつ伏せなど、どのような寝方にもフィットします。さらに横幅60cmと幅広設計なので寝返りしやすく、睡眠の質が高まります。

特徴2:脳を冷やして早く、深く眠れる

脳を冷やすと、眠り始めの90分の睡眠が深くなり、眠りの質が良くなります。この90分の質が悪いと、その後何時間寝ても睡眠の質が悪いとまで言われているほど。ポリエチレンを編み込んで作られる『ブレインスリープ ピロー』は、枕に使用されることの多いウレタンやフェザーなどの他素材と比べて、長時間眠っていても高い放熱量を維持することができるので、頭部の温度を低く保つことが可能。熱や湿気が睡眠を邪魔することなく、快適に睡眠できます。

特徴3:自宅で丸洗いできるからいつでも清潔

ポリエチレンを編み込んでできているため、汚れが素材にしみ込んで取れないということも起こりにくく、シャワーで簡単に汚れを落とすことができます。3か月に1回程度のお手入れがおすすめですが、自宅で手洗いできるので、汚れや臭いが気になった時に丸洗いし、いつでも清潔な状態をキープ。また、枕カバーは洗濯機で洗うことができます。

さらにダニやカビが発生しにくい素材なので、ハウスダストやアレルギーをお持ちの方や、お子様と一緒に寝ている方が安心して使用できるのも嬉しいポイントです。ブレインスリープピロー購入ボタン

ブレインスリープ マットレス プレミアム フロート

ブレインスリープ マットレス プレミアム フロートイメージ画像

「ブレインスリープ マットレス プレミアム フロート」は、9層構造が多方向から身体をしっかり支えることによる超・体圧分散と、NASAが提唱する究極のリラックス姿勢の再現により、身体の負荷を軽減するマットレスです。

特徴1:新感覚の弾力。9層構造のハイブリット反発で身体の負荷を軽減

一方向だけではなく、無数の繊維があらゆる方向から立体的に身体を支えるハイブリッド反発が、部位によって異なる重さや面積に最適に反応。さらに独自の9層構造が重力を吸収してその力を反発力に変換。しっかりと身体を支えて正しい寝姿勢を保ちます。

特徴2:NASAが提唱する中立姿勢を再現。究極のリラックスへ

宇宙空間で身体を預けると、自然と肩が内側に入り、脚が上がった体勢になります。これは、身体に最も負担の少ない姿勢だとされています。本製品は独自の三次元構造体によって、浮遊するかのような反発と肩・腰・脚に合わせた最適な硬さを形成し、重力から解放された究極のリラックス姿勢へと促します。

特徴3:脚をあげることで巡りを高める。

脚部が胸元より4cm高く設計されており、血流が胸元に循環しやすくなります。

特徴4:30年間相当使用できる優れた耐久性

毎日使うマットレスで気になるのはその耐久性。本製品はJIS規格の基準80,000回の3倍の圧縮でも高い耐久性を実証。長期間の使用でも安定した寝心地が続きます。 ※使用方法により、耐久年数は前後します。​

特徴5:シャワーで水洗いできて清潔。

カバーは取り外して洗濯機で洗えることはもちろん、マットレスの中材も全て洗えます。中材はシャワーで汚れを洗い流せて、シャワー後は日陰干しをするだけで簡単です。

ウレタンやコイルのマットレスは、通気性が悪く湿気や熱が溜まりやすいためマットレスの中でダニやカビが発生しやすいです。ブレインスリープのマットレスは通気性がいいのでダニやカビが発生しにくいうえに、ハウスダストやほこりが気になったらいつでも洗えるので清潔な状態を維持できます。

ブレインスリープ マットレス プレミアム フロート購入ボタン

 

ブレインスリープ コンフォーター パーフェクト ウォーム EX

ブレインスリープ コンフォーター パーフェクト ウォーム EXイメージ画像

「ブレインスリープ コンフォーター パーフェクト ウォーム EX」は、羽毛も毛布もいらない、これ1枚で冬の睡眠が快適になる究極に暖かい掛け布団です。

特徴1:羽毛を遥かに超える究極の暖かさ

その秘密は、熱を逃がさない9層魔法瓶構造。冷気を遮断するアルミプロテクター・驚異の吸湿発熱力を誇るカポックヒートEX・希少なレアメタルにより体温を反射するリカバリーインサレーションなど、先進テクノロジー素材をレイヤード。9層構造が熱を保温し、暖かい熱を逃しません。羽毛布団の中でも高品質と言われるグースダウン羽毛布団と比較して、約120%の保温性を実現しています。

特徴2:気持ちよく、ムレない究極の寝心地

カシミヤに極限まで近づけた特殊繊維構造の毛布生地で、まさにカシミヤの様な柔らかで滑らかな風合い。さらに、独自開発した肌面の毛布生地は、極上の気持良さ・ムレにくさ・吸湿発熱性機能を兼ね備えて、入った瞬間からの暖かさを実現します。

特徴3:自宅の洗濯機で丸洗い可能

丸ごと洗えて、清潔加工。オフシーズンにはコンパクト収納も可能。抗菌よりも強い制菌性で、ふとん内部の菌の増殖を抑制し、汗の嫌な臭いも消臭。しかも、抗ウィルス機能で究極の清潔さを保ちます。

特徴4:さらにわた埃の発生を約96%軽減。ハウスダストの心配も不要

ふとんから発生するわた埃を最小限に抑えることにより、毎日安心して睡眠できます。

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ブレインスリープ コンフォーター オールシーズンズ

ブレインスリープ コンフォーター オールシーズンズイメージ画像

『ブレインスリープ コンフォーター オールシーズンズ』は、宇宙服のために開発された革新的な調温技術を採用。独自のマイクロカプセルが温度変化に応じて個体と液体に変化し、吸熱、蓄熱、放熱を繰り返します。

特徴1:暑い時は涼しく、寒い時は暖かい

暑い時は余分な熱を吸収し、寒い時は貯蓄した熱を放出するので、寝床内の快適温度(33℃±1℃)をキープ。さらに、接触冷感と暖かい起毛素材のリバーシブル構造なので、夏は涼しく、冬はインナーケットとして、一年を通して使用することができます。

特徴2:リバーシブル構造で365日手放せない

季節に合わせて生地の表裏を使い分けることができます。 暖かい季節はさらっとした接触冷感生地を肌側に、寒い季節は柔らかくてなめらかなピーチスキン生地でやさしく包み込みます。

特徴3:イージーウォッシュで毎日清潔に

家庭用洗濯機で丸洗いができるので、いつでも気軽に洗えて清潔です。

ブレインスリープ コンフォーター オールシーズンズ購入ボタン

(取材・構成・編集=ブレインスリープ編集部  撮影・ライター=エニシエモーション 瀧山)

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朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...