ととのえ親方&サウナ師匠

【#4 BRAINSLEEP LIFE -ととのえ親方&サウナ師匠】ブレインスリープはサウナーに使ってほしい

【#4 BRAINSLEEP LIFE -ととのえ親方&サウナ師匠】ブレインスリープはサウナーに使ってほしい

#BRAINSLEEPLIFE #passion-never-sleeps #特集

BRAINSLEEP LIFE第5弾は、共同でサウナー専門のブランド「TTNE」を立ち上げるなど、サウナプロデューサーとして活躍されている、ととのえ親方こと松尾大さんとサウナ師匠こと秋山大輔さんにお話を伺います。

Q:自己紹介をお願いします。

親方:ととのえ親方と申します。サウナのプロデューサーとかサウナ全般のことやってるって感じですね。

ととのえ親方

師匠:サウナ師匠です。ととのえ親方と一緒にサウナのプロデュースとか、サウナ機器の販売をしたりしてます。

サウナ師匠の秋山大輔さん

Q:お二人の出会いは?

ととのえ親方&サウナ師匠の談笑

師匠:もともと僕が10代ぐらいからサウナ好きで、東京の方でいろんな人をサウナ―にしていった流れがあって、それで友達が「北」に有名なプロサウナーがいるから紹介したいと。

親方:俺は「南」、東京に有名なプロサウナ―がいるから紹介するって言われたんだけどね!

師匠:それで札幌行った時に一緒にサウナに入って、その時は友人に紹介されたサウナ好きの北と関東のおじさん二人っていう感じでした。

Q:サウナ―になったきっかけを教えてください。

親方の写真

親方:とにかくサウナが好きだった。特にサウナ入った後に、水風呂入って吐く息が気持ちよかった。それがすごい好きだった。

師匠の写真

師匠:俺も最初は水風呂が気持ちよくて!あと、仕事で自律神経壊した時に、サウナに行くことで寝られるようになったりとか、体調良くなったりしたので、サウナってめちゃくちゃ体にいいかもっていうのはありましたね。

Q:一日の生活リズムを教えてください。

親方:朝起きるのは早い。04:00とか。それで朝サウナ入って、夜ご飯の前にサウナ入るっていうね。

師匠:だいたい06:00〜06:30に起きて、07:30〜08:00にまずサウナ。09:30ぐらいに出社して仕事して、16:00ぐらいにまたサウナ。夕食を食べて、またサウナ行こうとなれば、21:00ぐらいにサウナ。それで22:00か23:00に寝る。なので、7時間睡眠ぐらいかな。

Q:サウナは睡眠に影響したりしますか?

親方:サウナに入った時の睡眠と、サウナに入ってない時の睡眠は、もう全然違います。フィンランドだとサウナは天然の睡眠薬だみたいに言われてて、本当に寝られるんだよね。

師匠:仕事で考え事が多かったりとかして、興奮状態で寝なかったりとかしても、サウナ入ってから寝ると、そのまま早く寝られたりとかしますね。

Q:睡眠に関してのお悩みはありましたか?

親方:ブレインスリープに出会う前に困っていたことは結構あって、枕が暑くなっちゃって、眠れないことが多かった。

師匠:暑くて夜中何回も起きちゃう。トイレでもないのに起きてしまって、睡眠が浅いみたいな…

親方:もうひっくり返してひっくり返して、枕をお好み焼きみたいにしてたから(笑)

ととのえ親方&サウナ師匠の談笑

師匠:当時、人生の三分の一は寝ているんだから、そこに投資したほうがいいみたいな話を聞いた時に、ベット高いの買ったり、枕買ったり色々試したんだけど、今まで使っていたものはあまり記憶にない。今はブレインスリープずっと使っているから。

Q:ブレインスリープの商品を使ってみて、気に入っている点があれば教えてください

親方:とにかく今まで使った枕いっぱいあるけど、ブレインスリープは暑くならない。頭の後頭部が。そこがすごいと思うな。

師匠:熱が逃げやすい構造になってるよね。

ととのえ親方&サウナ師匠の談笑

親方:あと表裏で硬さ違うから、それもすごい。沈み込みの心地よさが、返してくれるようなちょうどいい反発感がある。

師匠:高さも上と下で違うんだよね。

親方:だからいろいろと変化させられる。

師匠:枕の高さ、ハイで選んでたよね?

親方:体鍛えてる時期は、肩の筋肉とか、背中とかもでかくなるから、横になったら首が落ちちゃう。だから体鍛えてる時はハイが良い。

師匠:あとサウナもそうだけど、水分補給ってめちゃくちゃ大事じゃん。親方が、寝る時にコップ一杯の水を横に置いてるのを見てから、真似するようにしてる。

親方:置いとく!枕元には絶対置いとく!ブレインスリープ ウォーターは飲みやすい。普通の水とも少し違うし、おいしいね。

ととのえ親方&サウナ師匠の談笑

師匠:夜寝る前にこの線まで飲んで、この線までは朝飲んでる。

親方:そういう飲み方があるんだ。わかりやすいよね。

Q:ブレインスリープを使用することで睡眠について変わったと感じることがあれば教えてください。

親方:使用前は朝起きてもなんか疲れた感じが残ってたけど、それが無くなった。朝起きてぱっとベッドの上でタスクをこなしたり、そういうことが多くなった。朝の時間結構使ってるって感じになったと思う。

師匠:俺も結構夜型だったけど、朝の有効活用というか、朝からオンにできると、夕方まで引っ張らなくてもある程度処理できる。睡眠の質が上がって、プラスアルファで俺たちは朝サウナに入るので。
だから掛け合わせがめっちゃ良い!夜サウナ入って自律神経整えて、すぐ寝て、朝起きて良い状態なんだけど、またそれに輪をかけて朝サウナ入って。本当に普通の人の2倍ぐらい生きてる感じ!

Q:ブレインスリープを体験して欲しいと思う人はいらっしゃいますか?

親方:やっぱりサウナー全般に使ってほしいよね。
サウナで、体が良くなったとか精神的にもすごい良くなったみたいなこと言ってくれる人がいて、本当に親方のお蔭ですみたいなこといっぱい言ってくれるから、そういう人達を、もう一段階良くしてやろうか!って思うよね (笑)

師匠:これもあるんだぞ!ってね(笑)

ととのえ親方&サウナ師匠の談笑

親方:サウナ入って寝つきが良くなって、寝た後もすごい気持ちいいよっていうところは、サウナーの人には体験してみてほしいなと思いますね。

師匠:サウナで出来る事って、ある程度サウナ室で決まっちゃうじゃん。なんか整いにドライブかけるじゃないけど、より整うために、それ以外の生活でどう持っていくかっていうか。生活の整えのリズムがあるでしょ。
俺もブレインスリープ知ったのは、できる経営者の人達が使ってるっていう情報をいろんなところから聞いたんだけど、その人達は、高級ホテルのスイートとか泊まった上でブレインスリープを選んでるわけだから、ある意味終着点なのかなと思って使ってます。

親方:会社の社員さんにあげたら売上あがるかもね。

師匠:どんどん生産性上がって良いかも!

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...