不規則な生活リズムにおける睡眠対策とは?

【現役CAインタビュー】不規則な生活リズムの中で、仕事は常に100%クオリティ!それを支える睡眠事情とは?

【現役CAインタビュー】不規則な生活リズムの中で、仕事は常に100%クオリティ!それを支える睡眠事情とは?

#インタビュー #特集

生活リズムが不規則なお仕事の中でも代表的な「客室乗務員(CA)」として、現役でご活躍されている3名の方にお話を伺いました。今回はCAさんならではの睡眠事情を探っていきたいと思います!

※本インタビューは、3月13日に実施したものです。

インタビューの様子

【PROFILE】右奥からAさん(国内線7年勤務)、Bさん(国内線、国際線12年勤務)、Cさん(国内線1年、国際線1年勤務)

〈 CA流 〉不規則なお仕事で睡眠で気をつけていることは?

――ステイ先で寝る時に気にかけている事はありますか?

Bさん:20代の頃は寝ずに仕事へ行っても元気だったんですけど、やっぱり30代が過ぎてからは「ちゃんと寝ないと」と思うようになりましたね。

Cさん:確かに国内線は2時間睡眠とかで出社してもなんとか行けるんですけど、国際線はフライト時間が長いので、やっぱりある程度は寝ておかないとちょっと体力的にきついなというのはあります。

――時差などがとても辛いとは思いますが、普段”仮眠”はされますか?

Cさん:はい。私は交代でしています。路線によりけりなのですが、長い路線のサービスの仕方によって(仮眠)出来たりもします。

――時差の部分で睡眠に気を付けている事はありますか?

Bさん:寝たい時に寝るという感じです。

Aさん:現地時間に合わせてとかではなくて?

Bさん:ではないです。自分が寝たい時に寝て、貯金みたいに「さっき3時間寝れた」って思って、「眠らなくても大丈夫かな」と思い込ませています。

インタビューの様子

〈 CA流 〉睡眠の質を高めるために欲しいアイテムは?

――機内の睡眠環境の中で「こんな物があったらいい」というものはありますか?

Bさん:ヘッドホンが欲しいです。

Aさん:ノイズキャンセルだね!

Bさん:ノイズキャンセルで寝ながら使えるやつが欲しいなと思っています。多分ヘッドホンしながら横向いて寝れないですし…。結構ホテルの部屋って隣の人の声とか聞こえるんです。私たちが寝たい時に限ってパーティーが始まったり。

Aさん:あるある、工事とかもね……。

Bさん:なのでノイズを防ぐものがあったらいいなと思います。耳栓を入れても全然聞こえちゃうので、ノイズを防いで寝ながら使える物があったら良いなと思いますね。

Aさん:そういうのあるのかな?

――BOSEから小さいノイズキャンセラー型イヤホンが出ていましたね。

BOSEのノイズキャンセラー型イヤホン

※現在は販売しておりません。

 

Bさん:あ、出てるんですね!しかも睡眠の邪魔にならないんですね!

Aさん:それでアラームで起こしてもらえたら一番良いですね。

Bさん:あ、そうですね!

Aさん:一番怖いのは目覚ましが聴こえない事なんですよね。

Bさん:遅刻が一番怖いです。

――ステイ先でゆっくり寝るために欲しいアイテムなどはありますか?

インタビューの様子

Aさん:私はどこでも寝られるんですけど、加湿をしないとどうしても風邪をひきやすくなって寝れなくなります。お肌や髪の毛も、いつも自分が使っているケア用品でなく旅先に持ってきた間に合わせのもので肌も荒れるので、とりあえず加湿は大事ですね。

――保湿と温度のバランスは大事ですよね。Cさんは何かありますか?

インタビューの様子

Cさん:たまに枕があまり好きじゃないなという時がありますね。寝れなくはないんですけど。枕は携帯できる様な大きさではないですが、携帯しやすくて元々の枕に何かを乗せたら寝やすくなるような物があったら寝やすいのかなと思います。

Cさん:たまに国内線のステイ先で穀物みたいな物が入っている枕があるんですけど、あれはちょっと嫌だなと思いました。

Aさん:あ、そば殻が好きなのかと思った(笑)

Cさん:あれはちょっとしんどいなと思います(笑)

――機内でこんな睡眠グッズがあればお客様も乗務員も嬉しいものってありますか?

全員:んー……難しいですねぇ……。

――ちなみに、アラブの航空会社で配布されているアイマスクでは、アイマスクの色や書いてある文字で要件を伝える事が出来るみたいですよ。

アイマスク

Bさん:頭いい!

Cさん:えー!

Aさん:さすが!

Cさん:本当いいですねこれ。全航空会社でやったらいいのに。

Aさん:お目覚めシールみたいな物は国際線ではしないんですか?

Bさん:国際線も貼ってます!私たちはシールですね。

Aさん:起きたら声を掛けてくだいというシールです。

(皆さん、一番テンションが上がった瞬間でした。笑)

――ブレインスリープではこういった枕などを作っています。ぜひ触ってみてください。中の素材によって通気性が良くなっているので熱がこもらず快適に使用できます。

ブレインスリープで開発した「スタンフォード式 最高の睡眠から生まれた脳眠枕」を実際に触っていただいている様子

ブレインスリープで開発した「スタンフォード式 最高の睡眠から生まれた脳眠枕」を実際に触っていただいている様子

Cさん:へー!

Aさん:結構弾力ありますね。

Bさん:へーすごい。

Aさん:でも確かに、ホテルの大きな枕って夏とか熱が籠るので寝づらいと思います。

〈 CA流 〉快眠対策として実施していることは?

――普段寝る前にしている事などはありますか?

Aさん:寝る前の入眠儀式は、お風呂に入って、上がったらストレッチ。ストレッチが終わったらリンパマッサージを足から上にかけてやります。それをしないと眠れないので必ずやっていますね。

インタビューの様子

――お仕事をされるようになってからの睡眠の変化はありますか?

Bさん:規則正しい生活ではないですね。不規則の極まりです。私は朝も夜も強い方だったんですけど、最近夜は眠くなってしまいます。

Aさん:朝も2時3時に起きる事もありますもんね。

Bさん:そうですね。仕事が始まる時間が一定ではないので、朝すごく早い時もあれば夜遅い時もありますし。なので、その仕事の時間に合わせて逆算して寝る様にしています。

Aさん:寝溜めとかそういう感じですよね。

Bさん:はい、朝早い時は1時間ごとに起きて熟睡は出来ないです。

(そんな状態でも仕事中は常に笑顔って、ほんとすごいです…)

――お仕事柄絶対に遅刻できないと思うんですけど、起きる時はいつも普通のアラームなどで起きていますか?

Bさん:iPhoneとiPadで2個(アラームを)やっています。もしかしたらどっちかが電源落ちてしまうかもという恐怖から…笑。

Aさん:ホテルのアラームも使います。

Cさん:朝早くて、家だと音が大きい目覚まし時計です。それ以外は携帯ですね。

(リスクを考えて、「念には念には念を」ということですね!)

――機内でいびきが大きいお客様などの対応はどうしていますか?

インタビューの様子

Bさん:あまりに大きいお客様にはお声がけします。お客様! うなされていましたよ!とういうふうに。

Aさん:うまい!

Cさん:それいいですね!知らなかったです。

Bさん:そう言うとお客様は「はっ」となります。でもまたかくんですけど……。

全員:(笑)

――自宅での睡眠で改善したい点などはありますか?

インタビューの様子

Cさん:良いベッドを買った人の話を聞いた時に「ああ私も欲しいな」と思います。やっぱり休みの日に長い間寝たりする時間が多いので、よく使う物は良い物でもいいのかなと思いますね。

――世界で一番眠れてない国が日本なのですが、CAさんの中で「眠れない」などといった話題にはなりますか?

インタビューの様子

Bさん:時差で眠れない人は薬を飲んで寝ているみたいですね。海外のクルーの方などに多いみたいです。日本人には睡眠導入剤って「起きれなかったらどうしよう」って怖くなるのでハードルが高いですが。

――職場でなくママ友の間などでは睡眠についての話題は出ますか?

インタビューの様子

Aさん:寝具などについてはあまり無いですけど、どうしても子供の寝かしつけなどについての話になってしまいますね。眠らせる絵本というのが売ってるんですけど、長いだけという感じがしました。

全員:(笑)

Aさん:海外の日本語訳なんですけど、大人も眠くなります(笑)

――朝起きた時に、目を覚ます方法などはありますか?

インタビューの様子

Cさん:私は国内線で朝早い時は、あまり寝れなくてテンションが下がっているので強制的に起きるためにEDMを爆音でかけたりします。

Bさん:へー!

Aさん:でも分かる気はします。

Cさん:強制的に目覚めるみたいな(笑)

Aさん:目覚めるかは分からないですが、私は起きてすぐ朝ごはんを食べてます。(朝起きてから)出勤まで1時間半必ずかけていて、そこまでしないと体が起きてこないので。覚醒までを逆算して、体を作っていってましたね。

Bさん:私も同じで起きてから家を出るまで最短1時間半は欲しいです。

〈 CA流 〉まとめとAskCAについて

――まとめ

皆さん、仕事が始まる時間が一定でなかったり、ステイ先のホテルによって睡眠環境も変わる状態で「不規則の極まり」に悩まれていました。

入眠は仕事の疲れもあり、すっと眠れるとのことでしたが問題は朝の「起床」。一般的なビジネスマンとは違い起きる時間も不規則。でも、iPhoneとiPadのダブルアラームや、朝は1.5時間を確保するルーティーン、また起床時はEDMを爆音で流すなど独自の方法で起床していることはユニークでした。

また、アラブの航空会社でお客様に配布しているアメニティの「アイマスク」は、お客様の睡眠を妨げないことから、CAさん的にも一目でお客様がどうして欲しいのかわかるため、大絶賛でした。(ぜひ日本の航空会社にも導入いただきたいですね)

インタビューの様子

とてもユニークなお話をたくさん伺えました。

今後も、生活リズムが不規則なお仕事をされている方々の睡眠事情について取り上げていき、編集部として少しでもサポートできる糸口を探していきたいと思います。





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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...