アイマスクをして寝る男性

始めた人から未来が変わる。話題のNMNと、老化を抑制するサーチュイン遺伝子

睡眠コラム

始めた人から未来が変わる。話題のNMNと、老化を抑制するサーチュイン遺伝子

#NMN #健康

老化は、誰もが避けられない自然な現象です。しかし、できればいつまでも若々しくいたい、できるだけ元気で長生きしたいと多くの人は考えるでしょう。現代では、人が老化する仕組みや、それを抑制する方法、さらには若返りの可能性などについての数々の研究から、NMNが老化の抑制に効果的であることが分かり、私たちも気軽に摂取して補うことができるのをご存じでしょうか。

ここでは、NMNとは何なのか、なぜ老化の抑制や寿命の延伸、睡眠に良い影響をもたらすと言われるのか、分かりやすく解説していきます。

NMNとは?

NMN(ニコチンアミドモノヌクレオチド)は、ビタミンB3から作られる物質で、加齢と共に失っていく、生きていくために必要な生体内物質を増やす成分です。その機能から、近年世界中の研究者の注目を集めています。

研究者がNMNに注目するイラスト

老化について

老人の手のイラスト

「老化」とは、生物の成熟期以降に起こる生理機能の衰退や変化のことを指します。時間の経過とともに現れる機能や適応力の低下、その過程のことも含めて、老化という言葉で表します。

老化が身体にもたらす代表的な影響は以下のとおりです。

  • 脳神経系…認知機能の低下
  • 心血管系…心筋梗塞、心不全、高血圧
  • 呼吸器系…呼吸機能の低下
  • 消化器系…誤嚥性肺炎、便秘、便通の異常
  • 腎泌尿器系…夜間尿の増加、尿失禁
  • 骨格系…骨粗しょう症、関節炎

老化が加速するのはエネルギー代謝機能が大幅に低下してくる40歳台からと考えられており、この頃から身体のあちこちに影響が見られるようになってきます。

NAD+は老化を食い止めるカギとなる物質

NAD+の化学式

老化のスピードは、エネルギー代謝が低下すればするほど早まると考えられているため、代謝のコントロールは老化を食い止める方法の1つとして注目を集めています。

そこで注目したいのが、エネルギー代謝に大きく関わり、近年では有名なメディアでも取り上げられるほど、老化の抑制への効果が期待されているNAD+という酵素です。このNAD+により、生命活動に必要なエネルギーが細胞に行き届くことで私たちは健康を維持することができていますが、NAD+は加齢とともに体内から減っていきます。それに伴って細胞にエネルギーが届きにくくなり、老化へと繋がっていくのです。

NAD+はNMNによって効率良く増やせる

加齢とともに体内から減っていくNAD+。NAD+を摂取すれば老化を食い止められると思う方も多いと思いますが、実は、NAD+は食べて体の中に入れたとしても、直接細胞に取り込まれることはほぼないとされています。しかし、NAD+の量はNMNによって効率よく増やすことができます。

老化の制御に重要な役割を果たす「サーチュイン遺伝子」

ここまでNAD+は老化と密接な関係にあり、加齢とともに減少するため、NMNを摂取することでNAD+を増やす必要があるということをお伝え致しました。ここからはNAD+が増えると、体内では何が起こるのかをご説明します。

NAD+は「サーチュイン遺伝子」の働きを活発にします。「サーチュイン遺伝子」とは老化や寿命に重要な役割を果たすミトコンドリアやテロメアといった器官を保護する働きがあります。

サーチュイン遺伝子の働き

ミトコンドリア

ミトコンドリアは、新しい細胞を作ったり、細胞を修復したり、基礎代謝を上げることに役立つ器官です。ミトコンドリアが増えると、古くなったミトコンドリアが除去されることとなり、これで代謝が上がります。ミトコンドリアの増加によって代謝が上がると、老化によって引き起こされる病気を改善したり、抑制したりといった効果が期待できます。そして、老化を引き起こす要因の1つである活性酸素を取り除いてくれます。お肌の老化や臓器の損傷など、活性酸素がもたらす悪い影響を抑える働きも期待されます。

テロメア

テロメアは、細胞の染色体の端っこにある構造体で、別名「命の回数券」とも呼ばれるほど、寿命との関係性が深いことで知られています。私たちの体は細胞分裂を繰り返しながら若さを保ちますが、いつかそれ以上の分裂ができなくなり、細胞死という状態になります。細胞が分裂できるかどうかはテロメアの長さに関わっており、分裂するたびに短くなっていくのが特徴です。サーチュイン遺伝子は、近年このテロメアの保護をしてすり減りを防ぐ効果があると言われています。

NMNとレスベラトロールとの比較

老化を抑制するとして、一時期話題になったポリフェノールの一種・レスベラトロールという成分があります。しかし、実際のところその効果について解明されておらず、哺乳類の寿命を伸ばすことについては直結しないことが分かりました。また、国が健康に関する効果を確認したものではないため、摂取基準や上限量は設けられていないものの、安全性については疑問の声も聞こえてくるのが現状です。

一方、NMNについては、ヒトが長期投与をしても安全であることが確認されており、哺乳類の寿命の延伸が見られることが明らかとなりました。先ほどご紹介した、さまざまな身体への良い影響をはじめ、睡眠の質を良くすることにも期待が高まっています。

老化抑制以外にNMNに期待できる効果

グッドマーク

それでは、さらに具体的に、NMNを積極的に摂取することでどんな効果をもたらすのか見ていきましょう。

NMNの体への効果

例えば、視力や聴力の向上、骨密度の増加、臓器機能の改善、肥満の抑制、運動パフォーマンスの向上、インスリン感受性の向上などは、世界中で研究が行われ、その効果について明らかになっています。

睡眠と老化との関係性

老化は、体の動きや病気の発生リスク、見た目の変化だけでなく、睡眠にも影響してきます。一般的に、高齢者が早寝早起きだと言われるのは、脳の老化により体内時計が変化し、生体機能のリズムが早い時間にズレやすくなるためです。

つまり、高齢者が早寝早起きをするのは、老化によってそうならざるを得なくなっている状態とも言えます。すべての高齢者に当てはまることではありませんが、一般的な特徴として多くの人に該当します。

さらに、老化が睡眠に与える影響は、時間帯の問題だけではありません。高齢者の場合、深い眠りが減り、浅い睡眠が増える傾向にあります。睡眠時間も短くなっていく傾向があり、、何度も途中で目が覚めたり、何となく疲れが残ったりしやすくなるのも特徴です。

NMNサプリメントで睡眠の質を改善

寝起きの女性

NMNのサプリメントによる睡眠等の体感評価では、摂取する前に比べて摂取後2週間で睡眠の質が高まったと体感する人が多いことが分かりました。これは、あくまでも個人の体感による評価ではありますが、熟睡度や寝付き度、リラックス、起床時の目覚め感が摂取後2週間で良くなったと感じる人が多くなっています。

そして、睡眠の質の高まりは、活力の向上や集中力アップ、業務効率の向上、頭のスッキリ感といった、日中の様子も同時に高めていることがこの評価ではうかがえます。

NMNを取り入れて、よりよい睡眠を

いつまでも元気でいたい、歳を重ねても若々しくありたいと考える人は多いでしょう。高齢になってもバイタリティあふれる生活を送るには、毎日の睡眠もとても大事になってきます。NMNは、安全性が担保されており、老化の克服や寿命の延伸が期待できる成分です。サプリメントなどで取り入れて、より良い睡眠とともに元気で健康な毎日を目指しましょう。

【参考】
※1 Zhao C et al., 2020
※2 Han S et al., 2020
※3 Nicolas D et al., 2018
※4 Han X et al., 2019
※5 Tarantini S et al., 2019
※6 Barbara MC et al., 2020
※7 Mills KF et al., 2016
※8 Michelle FG and Clarissa AH, 2016
※9 Song J et al., 2019
※10 Mills KF et al., 2016

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...