寝不足の男性

【医師監修】腰痛と寝不足は関連している?その背景と改善する方法を解説

睡眠コラム

【医師監修】腰痛と寝不足は関連している?その背景と改善する方法を解説

#快眠・安眠 #睡眠

腰痛の原因は様々ですが、その一つが寝不足であることは意外と知られていません。仕事もプライベートも忙しく、睡眠時間が短くなりがちな現代人だからこそ、腰痛と寝不足の関連を正しく理解し、必要に応じて環境を見直し・改善することが大切です。

この記事では腰痛と寝不足の関連や、寝不足の改善方法を解説します。

日本は寝不足大国?

実は日本は、他の国と比較して睡眠時間が短く、寝不足の方が多い傾向にあります。2021年のOECD(経済協力開発機構)の調査報告によると、日本人の平均睡眠時間は調査対象となった33ヵ国のなかでもっとも短かったというデータがあります。

参考:健康づくりのための睡眠ガイド 2023

理想の睡眠時間は人によって異なりますが、日本人の場合は睡眠時間を確保することが難しく、寝不足気味の方も多いようです。理想の睡眠時間に関しては、以下の記事をご覧ください。
理想の睡眠時間はどのくらい?最適な時間の見つけ方と確保の仕方

 

寝不足で生じる主な影響

では、寝不足の状態で生活しているとどのような悪影響が生じるのでしょうか?以下で具体的に解説します。

脳のパフォーマンス低下

寝不足による悪影響としてよくいわれているのは、脳のパフォーマンスの低下です。慢性的な睡眠不足は日中の眠気を誘い、意欲の低下や記憶力減退などにつながります。結果として仕事や学業など日常生活にも支障が出てしまいます。

免疫力の低下

研究によると、風邪をこじらせて肺炎になるリスクは睡眠時間によって差があり、睡眠時間が5時間未満の方は8時間睡眠の方に比べて1.4倍もリスクが高くなるそうです。これは、習慣的な睡眠時間の短縮が免疫力を低下させ、肺炎のリスクを高めるためです。免疫力の低下は他の感染症のリスクを高くすると言われており、寝不足と免疫力には密接な関係があることがわかります。

参考:A prospective study of sleep duration and pneumonia risk in women

精神状態の悪化

寝不足は精神状態にも影響を及ぼします。寝不足の方は些細なことにイライラしてしまう、不機嫌になってしまうなどの傾向があり、中高生のような子どもの場合は情緒不安定になることも。場合によってはうつ病を発症する恐れもあるため軽視できません。

慢性疾患のリスク増加

慢性疾患とは長期にわたって緩やかに続く疾患のことであり、寝不足が関連するものには腰痛や生活習慣病があります。

「ホルダラン健康研究における睡眠時間、BMI、代謝指標の関連性」によると、睡眠時間が短くなるほど肥満や高血圧、脂質異常症のような生活習慣病のリスクが高まるとのことです。

また、「睡眠時間と糖尿病および耐糖能障害との関連」では、7~8時間の睡眠をとっている方と比較して、5時間未満の睡眠時間の方は糖尿病リスクが2.5倍になるというデータもあります。

腰痛と寝不足は関連している?

腰痛に悩む女性

ここからは、寝不足と腰痛の関連を解説します。

寝不足で痛みに対して敏感になる

睡眠障害があると脳が痛みに対して敏感になると言われています。これは、睡眠障害によって脳をはじめとした中枢神経の細胞が活性化するためです。

寝不足によるストレスで腰痛が悪化する

寝不足によって引き起こされるストレスも腰痛に影響しています。ストレスによって全身が緊張すると、血の巡りが悪くなり、筋肉も硬くなります。結果として腰にコリが生じて腰痛が悪化してしまうのです。

寝不足による食欲増進作用で体重が増加する

寝不足の状態が過度に続くとホルモンの関係で食欲増進作用が働きます。食欲増進の期間が長くなれば体重増加につながり、腰痛を悪化させてしまう一因になります。

痛みが寝不足の原因になる

反対に、慢性的な痛みが寝不足の原因になるケースもあります。痛みを感じていると、当然ですが眠りにつきにくくなります。その結果、腰痛などの痛みがさらに悪化するという悪循環を引き起こすのです。

腰痛と寝不足を改善する方法

上述したように腰痛と寝不足には深い関係があります。では、どうすれば腰痛と寝不足を改善できるのでしょうか?その方法をご紹介します。

適度な運動を取り入れる

身体が健康な方で、かつ運動習慣がない方は、日常に適度な運動を取り入れることから始めてみましょう。おすすめはストレッチやエクササイズです。症状に応じて無理のない範囲で習慣化してみてください。

腰に負担のかかりにくい姿勢で寝る

寝るときの姿勢によって腰にかかる負担が違います。腰痛改善にもっとも効果的な寝姿勢は仰向け寝、もしくは横向き寝です。仰向け寝は全身に均等に圧力が分散され、血液が巡りやすく、また寝返りも打ちやすい姿勢です。

理想の寝姿勢に関して詳しく知りたい方は、以下の記事をご覧ください。
理想の寝姿勢とは?仰向け、横向き、うつ伏せ寝のポイントを徹底解説

中程度の硬さのマットレスを使う

マットレスの硬さも重要です。やわらかすぎるマットレスは適度な腰のカーブを保てず、反対に硬すぎるマットレスは骨があたって痛みを感じやすいでしょう。適度な中程度の硬さのマットレスを使用することをおすすめします。

例えばブレインスリープの「ブレインスリープ マットレス プラス フロート」は中程度の硬さ、またNASAが提唱する「身体の負担が最も少ない姿勢を再現」できるマットレスとなっています。硬さはもちろんのこと、どのように身体への負担をかけない工夫がなされているかなども、マットレス選びをする際の参考としてもよいでしょう。

体形に合った高さの枕を使う

枕には就寝時の自然な体勢を保つ役割があります。高さの合わない枕はこの役目を果たせないため腰痛の原因になります。枕はご自身の体形に合ったものをご使用ください。

枕の選び方は、次の記事でご覧いただけます。
枕の理想的な高さとは?睡眠の質を高める枕の選び方も解説

保温性の高い掛布団を使う

汗には体温を調節する働きがあります。人間の身体は深い眠りを保つために発汗して体温を下げているため、保温性の高い掛布団を使うことをおすすめします。可能であれば吸湿性・放湿性もチェックしましょう。

医療機関を受診する

以上に挙げた方法でも腰痛や寝不足が改善しない場合、原因は別にあると考えられます。その場合は早めに整形外科などの医療機関を受診するようにしましょう。

睡眠環境を見直して腰痛と寝不足を解消しよう

この記事では腰痛と寝不足の関連や、寝不足の改善方法を解説しました。腰痛と睡眠不足には密接な関係があります。睡眠時間や睡眠環境を見直すことで、いままで悩んでいた腰痛を改善できるケースもあるので、心当たりがある場合は睡眠の質を高め、寝不足を改善する生活を心がけてみてください。

腰痛と寝不足を改善しよう!ブレインスリープのアイテム3選

返回網誌

發表留言

請注意,留言須先通過審核才能發佈。

PICK UP

RELATED ARTICLE

関連記事

PICKUP ARTICLE

編集部おすすめ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...