情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

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モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。

「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」

そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。

初めて見つけた「自分だけの強み」

──格ゲーとの出会いを教えてください。

マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。

でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。

そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。

──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。

マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。

進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代

マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。

親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。

──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。

マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。

プロという概念がない時代の人生選択

──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか?

マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。

でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。

そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。

──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。

マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。

プロになって直面した「逃げ場所の消失」

──プロになって苦労したことは?

マゴさん: 参考にすべき先輩もいないから、どうプロ活動していけばいいのかわからなくて、すごく悩みました。他のスポーツのプロを見て、「真面目にやらなきゃ」「やりたくなくてもやらなきゃ」って思うようになって。

でもそれが一番つらかった。今まで自分がやりたくてやってたゲームが、やらなきゃいけないものに変わっちゃったんです。俺って元々、勉強とか塾とか、やらなきゃいけないことから逃げがちな人間だったんですよ。でもゲームだけは違った。ゲームは俺にとって唯一の「逃げ場所」だったのに、それすらも義務になってしまって。

新しいことが全くなくて、同じことの繰り返し。本当につまんなくて、やめようかと思うぐらい辛い時期が1年ぐらい続きましたね。

──好きなことが義務になってしまうジレンマですね。そこから抜け出すのは相当大変だったでしょう。

マゴさん: その時は本当にやめようかなと思ったんですよ。あまりにもちょっと辛かったので。だいたい一年くらい悩んでいました。

原点回帰で取り戻した「好奇心」

──どうやってその状況を乗り越えたんですか?

マゴさん: 原点回帰しましたね。小学校の時、10代後半の全国大会に向かう時期を思い出して、なんであの頃は楽しく格ゲーができてたんだろうって考えました。

やりたいと思ってやってたし、楽しいと思ってやってたからこそ、格ゲーが上手くなれたんです。「もっと強くなりたい」「新しい技術を覚えたい」っていう好奇心が、上達の原動力だったんだなって。

それから、格ゲーに対する好奇心を持つ努力をするようになりました。大会前の練習も、仕事として捉えるんじゃなくて、「自分を伸ばす」「新しい自分に出会う」っていうゴールに設定し直したら、すごく楽しくなりましたね。

──原点に戻ることで解決の糸口を見つけられたんですね。その発想転換がすばらしいです。

マゴさん: 楽しめるかということで思考転換して、ストレスなく今年まで一応プロゲーマーは続けられているのかなと思います。

探究心が支える楽しさ

──具体的に格ゲーを楽しむために意識していることは?

マゴさん: 格ゲーをやってる中で、プレイをよく見て、気になる場所を探すことですね。探究心を自分の中で作るっていうか。「なんでなんだろう?」っていう疑問が生まれて、それが知りたくなる。それが解明できた時、パズルのピースが埋まったみたいな感じになって、本当に楽しいんです。

人それぞれ楽しみ方は違うと思います。大会で勝つのが楽しい人、友達とプレイするのが楽しい人もいる。俺はそのパズルのピースが埋まる感覚が一番楽しいですね。

──パズルのピースが埋まる感覚、とてもわかりやすい表現ですね。マゴさんならではの楽しみ方ですね。

マゴさん: 自分の中で楽しいと思える部分を見つけることが楽しむコツなのかなという感じがします。中には大会で勝ったり、人に勝ったりということが楽しい人もいますし、友達とプレイすることが楽しいという人もいます。人それぞれ楽しみ方は違うと思いますが、僕はそういう楽しみ方がいいのかなと思います。

大会準備は「サウナみたいなもの」

──その探究心を大会で発揮する時のモチベーションは?

マゴさん: 大会自体がすごく楽しいんです。緊張するし、手が震えたり、アドレナリンが出たり。生きてきて、そこまでの刺激を得る体験って多分ないと思うんですけど、大会はそういう刺激を確実に与えてくれるんで。

でも大会の準備期間って、サウナみたいなものなんですよ。サウナって「5分入るぞ、10分入るぞ」って終わりが決まってるから耐えられるじゃないですか。大会も同じで、終わりが決まってるから辛くても耐えられる。そして何より、サウナから出て水風呂に入る時の「ととのう」感覚。あの最高の気持ち良さを大会後に味わえるから、辛い準備期間も頑張れるんです。

──「人生サウナ」理論、とても説得力がありますね(笑)。その比喩は多くの人が共感できそうです。

マゴさん: サウナも何時間も入っていたら辛いですけど、今日は5分入るぞとか10分入るぞとか決めているからこそ耐えられるじゃないですか。終わりを決めているから耐えられるんです。

長時間練習を支える睡眠の重要性

──大会前はどのくらいの時間練習されるんですか?

マゴさん: 朝は全然起きないんですけど(笑)、1、2時間しかゲームやらない日もあれば、本気モードの時は起きてから夜まで十何時間もやることもあります。オンラインで仲間を誘って、ずっとやってたりとか。

でも睡眠だけは絶対に取ります。俺は昔から寝ないとダメな人で、中高時代から寝ないで学校に行くと、眠くて何も考えられないし活動もできない。だから睡眠は基本的に取るようにしてるんです。8時間とか、時には12時間寝ることもありますね。

睡眠不足の時はパフォーマンスが明らかに落ちます。体がだるくて、血が巡ってない感じがして、頭が働かない。プレー中も「あれ?全然気づかなかった」みたいなことがある。逆にしっかり寝た時は調子が良くて、寝起きから5、6時間経った頃が最もパフォーマンスが高いですね。

──十何時間の練習でも睡眠は妥協しない。プロとしての体調管理がしっかりされているんですね。

マゴさん: 僕は本当に昔から寝ないとダメな人なので、中高時代の時から寝ないで学校に行ったりすると、もう何も考えられないとか活動ができない人だったので、睡眠は基本的に取るようにしています。

──睡眠の重要性を感じるようになったのは、年齢的な変化もあるんでしょうか?

マゴさん: そうですね。年取ってからあんまり眠れなくなったっていうのもあるし、中途覚醒で目覚めたりするようになって。1回目覚めたら二度寝が苦手だったんで、なかなか寝付けなくなる。だから余計に睡眠の質を意識するようになりましたね。

そんな時に出会ったのがブレインスリープでした。出会いは案件配信だったんですけど、最初話が来たときは正直「何がブレインスリープじゃ」って思ったんですよ(笑)。でも実際に寝てみたら、めちゃくちゃ良かったです。

──正直な感想をありがとうございます(笑)。最初は半信半疑だったということですね。

マゴさん: そうです、完全に半信半疑でした。でも使ってみないと分からないものってありますよね。今まで肩こりとか、寝起きに首が痛くなることが多かったんですが、首の痛みは本当になくなりました。枕は何回か変えてきて、オーダーメイドも試したんですが、長く使うと合わなくなることが多くて。でもブレインスリープ ピローは、やっと自分に合う枕に出会えたなって思いました。

いや、本当にそうなんですよ。もし合わなかったら正直に言いますし、実際に良いと思ったから続けて使ってるんです。掛け布団、特に冬用のパーフェクトウォームEXも本当に良かったです。羽毛布団って軽すぎて隙間ができやすかったんですけど、ブレインスリープの掛け布団はしっかりと外気が入らない構造で、しっかり温まる。めちゃくちゃ気持ちよかったですね。

──マゴさんの率直なレビューは説得力があります。案件から始まって本当のファンになっていただいたということが伝わってきます。

マゴさん: そうですね。今では普通に愛用者って感じです。睡眠の質が上がったのは間違いないですね。案件だからいい商品だと言うんじゃなくて、いい商品だから案件を受けたいって思えるようになりました。これって理想的な関係だと思います。

年齢を重ねて見えた新しい強み

──40歳という年齢についてはどう感じていますか?

マゴさん: 引退を常に考えるようになりましたね。本当に若い世代の強い選手がどんどん出てきてるから。でも食らいついていこうという気持ちもあります。

若い頃は記憶力も瞬発力も、特に意識しなくても自然にあったんですけど、今は違う。忘れっぽくなったから、メモを取るようになりました。昔は頭の中だけで覚えていられたことも、今はちゃんと書き留めないと忘れちゃうんで。

でも年を重ねるごとにプラス部分もあるんです。攻略の深さとか知識は、若い人たちには負けない。いろんなゲームをやってきたし、いろんな知識や技術が自分の頭に入ってる。それをどう応用していくかは、若い人にはできないことだと思いますね。

──年齢による変化を受け入れつつ、自分の強みを活かしていく。とても前向きな考え方ですね。

マゴさん: 年を重ねていくごとに、プラスの部分もあります。攻略の深さとか、その知識が今までの、若い人たちに比べたら、いろんなゲームもやってきているし、いろんな知識や技術が自分の頭の中に入っているので、それをどういうふうに応用していくかというのは、若い人たちには多分できないことだと思うので、経験という面では割と長けているのかなという感じがします。

格ゲー界の未来への想い

──今後の目標を教えてください。

マゴさん: 今は格ゲーがブームですけど、90年代にもブームがあって、そこから徐々に衰退していったんです。ゲームセンターに人がいなくなって、ゲームは良くないものっていう風潮にもなった。またあの時のようにならないようにしたいんです。

ブームは必ず収まるものだと思ってるので、この状態の時にしっかりと活動して、土台作りができたらいいなと。プロゲーマーだけじゃなく、サポートするチームの人、キャスター、スタッフ、イベント会社、配信者。いろんなゲームに関わることで生きていける人が増えれば、当たり前のようにゲームで生きていくことができるようになる。

自分が楽しく生きていけるような環境づくりができればと思ってます。

情熱を燃やし続けるための秘訣

──「情熱だけは眠らせない」というメッセージについて。

マゴさん: 人生は楽しむべきだと思います。でも楽しくやるって難しい。苦しい時もいっぱいある。だからそういう時こそ、楽しい時間を増やすっていうのが我々の仕事なんじゃないかなって思います。

睡眠はしっかり取る。体と心のコンディションを整える。その上で、好奇心と探究心を持ち続ける。情熱を燃やし続けるために、まず体を休める。一見矛盾するようですけど、実は最も理にかなったアプローチだと思いますね。

──「情熱を燃やし続けるために、まず体を休める」という言葉、とても印象的です。マゴさんならではの深い洞察ですね。

マゴさん: ありがとうございます。これって、長年やってきたからこそ分かったことなんです。若い頃は「気合いがあれば何でもできる」って思ってましたけど、実際はそうじゃない。情熱って燃料みたいなもので、燃料を燃やし続けるには、ちゃんとしたエンジンが必要。そのエンジンが体であり、心なんです。だから、まずはエンジンを整備する。それが一番大事ですね。

 

40歳になった今も、マゴ選手の情熱は衰えることがない。好きなことを仕事にすることの本当の意味を知っているからだろう。辛い時期を乗り越え、楽しみ方を見つけ直し、年齢を重ねることで得た知見を活かしながら。

格ゲー界の未来を想いながら、今日もマゴ選手は変わらぬ情熱でゲームと向き合っている。質の高い睡眠に支えられた持続可能な情熱。それこそが、マゴ選手が長年走り続けてこられた秘密なのだ。

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...