マットレスと敷布団の違いとは?使えるシーン別に考えるMV

マットレスと敷布団の違いとは?使えるシーン別に考える

寝具の選び方

マットレスと敷布団の違いとは?使えるシーン別に考える

#マットレス

新しく寝具を購入する際、マットレスと布団、どちらにしようかと迷うことはよくあります。「マットレスと布団の違いって?」「結局どっちの方が寝やすいの?」と疑問に思うことも多いですよね。

マットレスと布団のそれぞれに特長、メリット・デメリットがあります。

また、体調やライフスタイルによってもおすすめの寝具が変わってくるものです。そこで今回はマットレスと布団の違いや双方の特長、選び方などをご紹介します。この記事を読めば、マットレスと布団、どちらが自分の体調やライフスタイルに適しているか分かりますよ!

最近寝つきが悪い、目が覚めたときに身体が痛いという方は寝具が体に合っていないかもしれません。一度、自分の寝具を見直してみませんか?

1.マットレスと布団はどう違う?

布団を整える写真

マットレスと布団の違いは?と改めて問われると詳しく答えられない方も多いのではないでしょうか?「マットレスはベッドに敷くもの、布団は床にそのまま敷くもの」漠然とこう考えている方も多いです。

ここでは、見た目だけでなく機能や身体への影響の面から、マットレス・布団の違いを解説します。

1-1.マットレス:弾力性・復元性が高い

マットレスを選ぶ男女

マットレスは、布団に比べて厚みがあります。製品によって厚みは異なりますが、10cm以上あるのが一般的です。

マットレスの素材には高反発ウレタン・低反発ウレタン・ポケットコイルなど、弾力性や復元性が高いものが使われています。

長らく日本で寝具として使われてきた布団は、弾力性が低いのが大きなデメリットでした。そのため、無圧布団などさまざまな改良布団が作られてきましたが、マットレスに比べるとその効果は低く、寝心地も悪いものでした。

そのため、寝る際に体にかかる負担をできるだけ少なくしたい場合は、マットレスが適していると言えるでしょう。特に、腰痛持ちなど、体のどこかに痛みを抱えている方はマットレスで眠ったほうが痛みを感じにくくなるはずです。

1-2.敷布団:ベッドいらずで収納・管理もラクラク

敷布団と和室

布団はマットレスよりも薄く弾力性が低いのですが、その分軽く、持ち運びが簡単でお手入れもしやすいのが特徴です。現在は丸洗いできる敷布団なんかもありますね。

また、敷布団は畳むことを前提として作られているので、部屋を広く使いたいときもおすすめの寝具です。特に、都市部のワンルームなど狭い部屋で暮らす場合は、限られた空間を有効に使うには布団に軍配があがりますね。

2.マットレスを使うメリット・デメリット

ベッドの写真

マットレスと布団の両者には当然使うメリットとデメリットがあります。

2-1.メリット:耐久性が高く体への負担が少ない

マットレスは、横になったときに体にかかる圧力を平均して分散してくれます。そのため、どこか一箇所に負担が集中することはありません。

布団で寝ていると、朝起きたときに腰に痛みを感じるという人もいますが、それは腰に負荷が集中しているため。

また、マットレスに使われている素材は耐久性が高く、5~10年くらいは使用できます。敷布団は3年前後でヘタリがくると言われており、長期間快適に使うのならマットレスがおすすめですね。

2-2.デメリット:大きく収納できないものが多く管理が大変

考える女性

マットレスのデメリットとして真っ先に上げられるのが大きさです。三つ折りマットレスなどたたんで収納できるものもありますが、快適さの面では劣ります。

マットレスは、床に置いてもベッドに置いても使えますが、置きっぱなしだとマットレスと床やベッドの接する部分に湿気が溜まり、カビが生えることも珍しくありません。

マットレスは布団に比べて湿気を逃しやすい構造になっているものの、まったく溜まらないということではないのです。

マットレスを快適に使うには、たまに布団のように日光に干すなどして乾燥させることが重要になってきます。しかし、マットレスを移動させるのは大変ですよね。

そこで活躍してくれるのが布団乾燥機などの専用機器です。

続いて、日本で昔から使われてきた布団を使うメリット・デメリットにはどのようなものがあるでしょうか。

3-1.メリット:移動がラクで管理がしやすい

布団はマットレスに比べるとずっと軽くて薄いのが特徴です。中の素材によっては重く感じられるものもありますが、持ち上げられないほど重いものはありません。

そのため、押し入れなどに収納しやすく管理も楽です。狭いワンルームでも布団を収納することで、部屋を広く使えますね。

また、布団を干したり洗ったりすることも可能です。へたったり汚れたりしたら専門業者にクリーニングや打ち直しに出すことで新品同様に使用することができます。

3-2.デメリット:湿気が溜まりやすく通気性はイマイチ

布団の写真

敷き布団の素材はいろいろありますが、綿など吸湿性が高いものが多いです。そのため、長く使っていると湿気がたまり、重くなったりカビが生えやすくなったりします。

布団を長く快適に使うには、天日干しや布団乾燥機を用いた乾燥など、小まめな手入れが欠かせません。

しかし、仕事で忙しい、天日干しをする場所がないといった理由で手入れができないこともありますよね。そうなると布団の寿命が短くなってしまいます。

布団の手入れが悪いとダニが湧いたりカビが生えたりするので注意してください。ダニやカビある布団を使っているとアレルギーを発症する危険も高まるので、定期的にメンテナンスをしましょう。

4.使うシーンでどちらが向いているのかを考える

ひらめく女性

布団とマットレスには一長一短があり、選ぶのが難しいかもしれません。布団とマットレスの使い分けは、使うシーンで考えるのがおすすめです。

4-1.マットレスが向いているシーン

マットレスを敷く写真

マットレスの使用が向いているのは、寝室や寝るスペースを確保できる家です。また、家の床がフローリングオンリーという家もマットレスが向いていますね。

体的な特徴を上げれば、腰痛や背面痛などの持病を持っている人や高齢者になります。前述したように腰痛や背面痛は寝ているときに体の一部に負担がかかりすぎることで起こることもあるのです。

高齢になるほど体を起こすことが大変になってくる方も多いでしょう。布団のように床との段差がほとんどないところで起き上がって立ち上がるより、マットレスのように段差があった方が起き上がるのも楽です。

この他、手入れが小まめにできない場合も、布団よりマットレスの方がおすすめです。ハウスダストなどもたまりにくく、アレルギーの方にもマットレスの使用が向いていると言えます。

4-2.布団が向いているシーン

寝ている赤ちゃん

布団の使用が向いているのは和室がある家です。

布団はもともと和室に敷くことを前提として作られています。厚い布団でもフローリングの床は硬すぎ、湿気も溜まりやすいです。

一方、畳みであれば湿気を吸ってくれ、快適に過ごすことができます。フローリングでは床が傷んでしまう可能性もあるので、あまり向いているとは言えないでしょう。

また、狭いスペースを有効に使いたい場合も布団がおすすめ。収納できるので、日中はスペースを広く活用することができます。

このほか、こまめに手入れができ、できるだけ新しいものを使い続けたい場合も布団が向いていますね。敷布団は1枚1万円前後で丸洗いを依頼できるので、1年に1度くらいの割合で頼めば、いつでも清潔な布団で眠れます。

まとめ:マットレスと布団の違いを理解しよう

ベッドメイキングする女性

最後に記事をまとめておきます。

  • マットレスの方が体への負担が少なく耐久性が高い
  • 布団は管理が楽で部屋が広く使える
  • 布団はマットレスに比べて寿命が短い
  • マットレスは管理・メンテナンスが大変
  • マットレスが向いているのはフローリング
  • 布団が向いているのは畳

マットレス・布団にはそれぞれメリット・デメリットがあり、体調やライフスタイルに合わせて選ぶことが大切です。

使い心地も重要ですが、管理できるかどうかもよく考えて選びましょう。最適な寝具を選べれば、パフォーマンス向上も期待できますよ!

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...