朝スッキリ起きる方法12選!「眠くて辛い」を卒業しよう

朝スッキリ起きる方法12選!「眠くて辛い」を卒業しよう

睡眠コラム

朝スッキリ起きる方法12選!「眠くて辛い」を卒業しよう

#快眠・安眠 #目覚め

誰しも一度くらいは「朝起きるのが辛い」「もっと寝起きを良くしたい」と思ったことがあると思います。目覚めが悪いと、「1日中身体がだるい」「頭が働かない」など、仕事や生活のパフォーマンスも下がるもの。そこでこの記事では、朝スッキリ起きるための方法をご紹介します。

目覚めが悪いと感じる人の割合は?

 アンケート調査「睡眠に関する悩み」結果

ブレインスリープが、20歳〜69歳の男女252人を対象に「睡眠に関する悩み」のアンケートを実施しました。

252人中、「起きたときに疲れがとれない」と回答した方が70人と最も多く、次いで、54人が「起きたときに眠気がとれない」と回答。スッキリと起きられずに悩んでいる方が多いことがわかりました。

また、「何度も目覚めてしまう」「日中に眠くなる」と回答した方も多く、十分な時間眠っても疲れがとれず、睡眠の質が悪いと感じている方が多いことがわかります。

ペンシルベニア大学とワシントン大学がおこなった研究によると、「6時間睡眠が2週間続くと、脳のパフォーマンスは二晩徹夜したときと同程度になる」とされており、睡眠不足と日中のパフォーマンスには密接な関係があります。

参考:追加覚醒の累積コスト:慢性的な睡眠制限と完全な睡眠不足による神経行動機能と睡眠生理学への用量反応効果|PubMed

かといって、忙しい現代人が毎日長時間の睡眠時間を確保するのは難しいものです。そのため、最近は睡眠時間だけでなく睡眠の質に注目が集まっています。

睡眠の質が高ければ、限られた睡眠時間内で効率的に身体や脳を休め、翌朝、頭がクリアな状態を維持できます。結果的に集中力アップ、イライラしない安定したメンタルなど、仕事のパフォーマンスにつながるでしょう。

朝スッキリ起きられない主な原因

パジャマ姿の女性

現代社会における生活様式の変化にともない、不眠に悩む方が増加しています。特に日本では、成人の約20%(5人に1人)が睡眠に関する問題を抱えており、30〜40%がなんらかの不眠症状を経験しているとされます。

参考:不眠症 | e-ヘルスネット(厚生労働省)

なかでも慢性不眠症は成人の約10%に見られ、原因としてはストレスや不安、アルコールの影響や睡眠環境まで実に多様です。そこで、スッキリとした目覚めを妨害している原因を7つご紹介します。

過度のストレス

悩み、イライラ、緊張などの心理的ストレスは、脳を活性化させる交感神経を働かせます。そのため寝付けても眠りが浅く、熟眠できなくなります。ストレスを抱え込まないようにするのはもちろん、寝る直前はなるべく頭を使わないように意識しましょう。

多忙による不安感

やるべきことが多すぎて整理整頓できていない事案があると、眠る前に思い出して不安に感じ、眠れなくなってしまうこともあります。感情が不安定なまま夜を迎えないように、やるべきことや予定を可視化するなどして、頭のなかを整理しておきましょう。

過度の飲酒

アルコールは少量飲む分には、スムーズな入眠の手助けになると考えられていますが、過度な飲酒は眠りの質を下げるためおすすめできません。それが慢性的に続くと、常に不眠の状態となり、朝スッキリと起きられなくなります。

夜遅い食事

食後、胃腸の働きが落ち着くまで約2〜3時間はかかるといわれているため、夕食は寝る2〜3時間前までに済ませましょう。もし夕食が遅くなってしまう場合は、早い時間に間食をし、夜は消化のよいメニューにしてください。

いびきや睡眠時無呼吸症候群

日常的にいびきをかいている方は、睡眠時無呼吸過眠症候群(SAS)の可能性があります。この病気は、睡眠時に頻繁に無呼吸や低呼吸になり、脳も身体も酸欠状態に陥るため、眠りの質が悪くなってしまいます。

十分な時間眠ったのに疲れがとれない方や、日中強い眠気に襲われる場合は、SASの可能性も疑ってみるとよいかもしれません。

ノンレム睡眠の浅さ

睡眠には「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」の2種類があります。個人差はありますが、一般的に入眠直後は、脳が深く眠っているノンレム睡眠の状態です。

そして入眠から約90分後に、脳が起きているレム睡眠に変わります。そのあとは約90分ごとにノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返し、明け方に近づくにつれ、ノンレム睡眠の間隔が短く、レム睡眠の間隔が長くなっていきます。

脳や身体の疲労感を回復してくれる深いノンレム睡眠がとれないと、長時間眠っても脳は十分に休まりません。また、深い睡眠が取れないと、光や物音で目が覚めてしまうことが増え、朝起きた際に熟睡感が得られにくくなります。

睡眠環境

快適な睡眠を得るためには、寝室環境の整備がとても重要です。特に「光・温度・音」の3つの要素が睡眠の質に大きく影響を与えることが知られています。

例えば、季節に合っていない寝具を使用したり、適切でない室温や湿度の環境で眠ったりすると、体温調節がうまくいかず睡眠が浅くなってしまいます。

その結果、夜中に何度も目が覚め、朝になってもスッキリと目覚められないといった問題が生じやすくなるのです。良質な睡眠を確保するためには、これらの環境要因を季節や好みに応じて調整するのが大切です。

朝スッキリ起きる方法12選

ベランダの前で伸びをする女性

朝の目覚めは、行動によって変えられることがあります。ここからは朝スッキリ起きる方法を12項目ご紹介します。

入眠8時間前からカフェインの摂取を控える

カフェインは脳を刺激して覚醒状態にします。個人差はありますが、摂取後30分程度で作用し始め、最大8時間程度持続するとされています。

そのため、コーヒーや緑茶、エネルギードリンクなど、カフェインを含む飲み物は夕方以降の摂取を控えるのがおすすめです。

夜遅くまでカフェインの効果が残ることで、就寝時になっても脳が興奮状態のままなので、寝つきが悪くなったり睡眠の質が低下したりする可能性があります。良質な睡眠のためには、カフェイン摂取のタイミングにも注意を払うことが大切です。

入眠2~3時間前までに夕食を済ませる

快適な睡眠と健康的な朝を叶えるためには、就寝前の食事管理が重要です。寝る直前の食事は胃に負担をかけ、睡眠の質を低下させるだけでなく、翌朝の胃腸の調子にも悪影響を及ぼします。

特に脂肪分の多い肉類や揚げ物は消化に時間がかかるため、夕食での摂取は控えめにするのがおすすめです。

また、どうしても夜に空腹を感じた場合は、消化のよいスープやホットミルクなどの温かい飲み物を選ぶことで、良質な睡眠を妨げることなく空腹感を満たせます。

入眠前はブルーライトを避ける

ブルーライトには体内時計を狂わせる作用があり、人間の自然な睡眠サイクルに影響を与えることが知られています。

参考:健康づくりのための睡眠ガイド 2023|厚生労働省

このブルーライトは、私たちが日常的に使用しているスマートフォンだけでなく、パソコンやテレビの画面からも多く発せられています。

特に夜間にこれらの機器から発せられるブルーライトを浴びることで、睡眠ホルモンであるメラトニンの分泌が抑制され、寝つきが悪くなったり、睡眠の質が低下したりするのです。

快適な睡眠のために、就寝前の1〜2時間はデジタル機器の使用を控えるようにしましょう。

入眠90分前までに入浴する

自律神経は、身体を動かすときに優位になる「交感神経」と、リラックス時に優位になる「副交感神経」に分かれており、互いにバランスをとりながら身体の調整をしています。

眠る90分前に少しぬるめのお湯(40度)に浸かると、リラックス効果で副交感神経が高まるだけでなく、体温が下がるタイミングで眠気を誘発させられます。

また、体温には「皮膚温度」と「深部体温」の2種類があり、深部体温は皮膚温度より2度ほど高い状態です。良質な睡眠を得るためには、皮膚温度を上げて深部体温を下げることが効果的です。

この理想的な体温バランスにするために、最も簡単な方法が就寝前の入浴です。ただし、入眠直前に42度以上の熱いお風呂に浸かると、交感神経が高くなるので気をつけましょう。

また、就寝90分前の入浴方法を詳しく知りたい方は下記のコラムもご覧ください。
第7条 就寝90分前に入浴完了/すぐ寝るときはシャワーにする

自分に合った寝具を使う

快適な睡眠を得るためには、枕や布団にこだわりましょう。体型や寝姿勢に合っていない寝具を使用すると、首や背中に余計な負担がかかって呼吸がしづらくなり、いびきが悪化します。

また、身体が寝具に合わないことで寝返りが増えたり、無意識のうちに体勢を直そうとして睡眠が浅くなったりするかもしれません。そのため、自分に合った寝具を選ぶことは、良質な睡眠につながります。

また、寝具の選び方を下記でも詳しくご紹介しているので、参考にしてください。
睡眠の質を上げる枕の上手な選び方。後悔しない選定基準とは?
朝の目覚めが変わる!?QOLが上がるマットレスの上手な選び方

部屋を暗くして寝る

メラトニンは睡眠を促進する重要なホルモンですが、その分泌量は周囲の明るさによって異なります。部屋を暗くするとメラトニンの分泌が促進され、自然な眠気を感じやすくなります。

そのため、就寝前には照明を少し落として薄暗い環境を作ることが、良質な睡眠への第一歩です。暗闇が苦手な方は間接照明を使用し、リラックスできる程度の明るさを保ちながらメラトニンの分泌を促しましょう。

朝日を浴びる

起きたらまずカーテンを開け、太陽の光を15秒ほど浴びましょう。太陽の光を浴びると、睡眠をつかさどるメラトニンの分泌がストップします。 元気の源であるセロトニンが活発に分泌されるようになるので、身体も頭もシャキッと目覚めるでしょう。

また、光を目に入れることで体内時計がリセットされ、約14〜16時間後に眠気のスイッチが入るといわれています。

コップ1杯の水を飲む

人間は睡眠中にコップ1杯分(約200cc)もの汗をかくため、起床時の水分補給は必須です。朝一番にコップ1杯の水または白湯を飲むことで、夜間に失われた水分を補給できます。

体内の水分バランスが整うだけでなく、腸の動きも活発になり、自然な排便を促します。さらに、朝の水分補給は身体をすっきりと目覚めさせ、体内時計の調整にも役立ち、結果として夜の睡眠の質も向上させられるでしょう。

ストレッチをおこなう

朝のストレッチは、夜間の睡眠で固まった身体をほぐし、一日を健やかにスタートさせるために大切です。寝起きのストレッチには、肩こりや背中の凝りを改善し、夜間に溜まった身体のむくみを緩和する効果があります。

また、基礎代謝を向上させ、身体を休眠モードから活動モードへと切り替える働きもあります。

特に効果的なのが全身の背伸びストレッチです。仰向けに寝た状態で手足を大きく伸ばし、全身を気持ちよく伸ばすとよいでしょう。

さらに、手首と足首を大きく回すストレッチをおこなうことで、末端の血行が促進され、身体が目覚めやすくなります。

これらの簡単なストレッチを朝の習慣に取り入れることで、一日中好調な体調を維持できるでしょう。

目覚めによい音楽を流す

大きなサイレン音、警告音、工事の音など、人が不快に感じやすいといわれている音は目覚めるためには効果的ですが、交感神経が一気に優位になってストレスを感じてしまいます。

耳への刺激という観点から、木琴の音や、鐘の音、さざ波の音など、1,500〜3,000ヘルツ程度の高い周波数の音が、目覚めによいとされています。最初は小さな音に設定し、徐々に大きな音にしていくなど工夫しましょう。

眠りの浅いタイミングで起きる

人間の身体は朝方になると自然と目覚めの準備を始め、体温や心拍数が徐々に上昇します。睡眠が浅くなっていくため、このタイミングで目覚めることができれば、気分よく朝を迎えられます。

効果的な目覚めの方法として、起きたい時間の20分前に、小さな音量の短いアラームをセットするのがおすすめです。この時点で目が覚めれば、睡眠が十分に浅くなっていたことになり、理想的な目覚めのタイミングだったといえるでしょう。

仮にこの最初のアラームで起きられなくても、本来の起床時刻では自然と睡眠が浅くなっている可能性が高く、結果としてすっきりと目覚められるでしょう。

朝食をとる

最初の食事により体温が上昇すると、体内時計がリセットされ、脳と身体が活動モードへとスムーズに切り替わります。特にエネルギーになるご飯やパン、体温を上げるタンパク質を上手にとり入れましょう。

また、朝のモチベーションを高めるために、前日から楽しみにできるものを用意しておくことも効果的です。例えば、好きな音楽を聴く時間を作ったり、おいしい朝食を前日に準備したりすることで、朝起きるのが楽しみになるでしょう。

朝スッキリ起きるためにおすすめのアイテム5選

ここからは、ブレインスリープがおすすめするアイテムをピックアップしています。良質な睡眠を得るためにも、ぜひ参考にしてください。

朝スッキリ起きる方法を試して気分よく目覚めよう!

良質な睡眠は、心身の健康維持だけでなく、仕事や日常生活のパフォーマンスを最大限に発揮するための基盤です。これまでご紹介した就寝前の環境づくり、朝の目覚めの工夫など、様々な方法を組み合わせることで、より質の高い睡眠を得られます。快適な睡眠習慣は、充実した毎日を送るための大切な一歩となるでしょう。

参考書籍
『スタンフォード式 最高の睡眠』(サンマーク出版)
『睡眠障害 現代の国民病を科学の力で克服する』(角川新書)

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...