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冬用の布団でおすすめは?軽くて暖かい布団の選び方をご紹介

寝具の選び方

冬用の布団でおすすめは?軽くて暖かい布団の選び方をご紹介

#掛け布団

肌寒い日が増えてくると、「そろそろ冬用の布団に切り替えよう」と思う方も多いかと思います。そこで、冬に使う布団の素材のバリエーションやチェックするポイントなど、睡眠の質を高める冬用布団の選び方をご紹介します。

冬用の布団って必要?

まずは、そもそも「夏と冬で布団を変える必要があるのか?」という疑問について考えてみましょう。

日本には四季があり、世界的に見ても珍しい気候

四季が分かる窓の写真

諸外国の建築物の構造をみると、熱帯地域の建物は風通しがよく、日よけとして軒先が長い構造が多く見られ、反対に寒冷地の建物では、熱が逃げるのを防ぐために、気密性の高い構造が多く見られます。このように世界の住宅は、夏か冬のどちらかの気候に合わせて作られています。

一方で日本には四季があり、夏は東南アジア並みのむし暑さがあり、冬は北欧並みの寒気にさらされるため、夏と冬の両方の対策が必要になります。このことから日本は夏と冬の両方に断熱対策が必要な、世界でもまれな気象条件をもつ国といわれています。そんな環境の中で眠るのですから、布団も季節に合わせて変える必要があります。

寒さが睡眠に及ぼす影響は大きい

まず「睡眠段階」とは、睡眠状態の指標として、脳波や眼球運動、筋電図などの特徴から睡眠を段階に分けたものです。一般的に、レム睡眠(体は休んでいるが、脳は起きている状態)と、ノンレム睡眠(脳も体も熟睡している状態)を4段階に分けた、計5段階に分類されています。

寝具やパジャマを使用せず、室温の変化を受けやすい裸体で眠った場合、体温調節のみで体温を維持すること が可能である29°Cよりも室温が低下するにつれて、睡眠時の覚醒時間が増加することが、研究から分かっています。

また、同じ温度幅で室温を低下させた場合、37°Cの 高温よりも、21°Cの低温から室温を低下させた方が、覚醒時間が2倍以上増加します。さらに、皮膚を加温または冷却した場合、睡眠に及ぼす影響は加温よりも冷却で 大きくなることがわかりました。

これらの結果から、暑さ(高温環境)よりも寒さ(低温環境)の方が睡眠に及ぼす影響が大きいと考えられます。だからこそ、秋冬は寝具にこだわって、快適な睡眠環境を整える必要があります。

冬用の布団はいつからいつまで必要?

冬用の布団を使い始める時期は、外気温ではなく室温を意識するようにしましょう。室内では暖房や冷房を付ける方がほとんどだと思いますので、あくまでも室温がポイントです。

いつから必要?

明確な決まりはありませんが、室温が15度を下回ってきたら、冬用の布団を使うと快適な睡眠を得ることができると言われています。

いつまで必要?

こちらも明確な決まりはありませんが、15度を上回ってきたら、冬用の布団を片付けても良さそうです。だいたい、3月くらいまで使用する人が多いようです。

冬用布団の種類(羽毛布団)について解説

羽毛の写真

冬用の布団と聞いて一番に思い浮かぶのが、羽毛布団ではないでしょうか。軽くて温かい羽毛布団は、良質な睡眠に欠かすことのできないアイテムです。ですが、ひと言に羽毛布団と言っても、羽毛には様々な種類があります。種類ごとにメリット・デメリットがあるので、自分に合った素材を探しましょう。

ダウンとフェザーの割合

一般的に、羽毛布団の中身の羽毛は「ダウン」の他に「フェザー」がブレンドされていて、布団によってダウンとフェザーの比率が異なります。ダウンが50%以上・フェザーが50%以下の布団を「羽毛布団」と呼び、ダウンが50%以下・フェザーが50%以上の布団を「羽根布団」と呼びます。

メーカーによっては、「羽毛布団」と「羽根布団」が混在して表示されていたり、フェザーではなく真綿などをブレンドした羽毛布団も販売されています。

ダウンとフェザーの違い

そもそも、「ダウン」とは水鳥の胸のあたりから採れる毛のことで、ふんわりと柔らかく、保湿性に優れているため暖かいのが特徴です。ダウンの比率が高い方が、ふわふわ感と暖かさがアップしますが、比例して値段も高くなる傾向にあります。

「フェザー」は水鳥の翼部分の羽根のことで、一般的に思い浮かぶ、芯のある羽根の形状です。吸湿性と放湿性に優れていますが、保温性は低いのが特性です。弾力性があるので、フェザーを混ぜることでコストダウンだけでなく、布団の型崩れを防ぐ効果もあります。

暖かさを求めるならダウン率が高い布団を選びましょう。また、ダウン、フェザー共に、使用する水鳥によって暖かさや価格が変わります。

ダック(アヒルの羽毛)

比較的リーズナブルに購入できますが、羽毛の塊が小さいので、ボリュームのある布団では重たくなってしまいます。また、雑食のアヒルの毛を使用しているので、臭いが気になる場合があります。

グース(ガチョウの羽毛)

ダックと比べると、保温性や軽さの面で優れています。また、草食のガチョウの羽毛なので臭いも気になりませんが、ダックよりも高価な商品が多いです。

マザーグース(ガチョウの親鳥の羽毛)

ボリュームたっぷりなのにとても軽いのが特徴。暖かい日は熱を逃がし、寒い日は熱を蓄えてくれるので、快適な温度が保てます。ですが、手摘みで丁寧に採取される希少な羽毛なので高価です。

アイダーダックダウン(北極圏に生息する野生の鳥の巣から採取される羽毛)

最高級羽毛布団と言われるアイダーダックダウンは、極寒の北極圏域に生息する野生の鳥の巣から採取するため、とても希少です。数百万円する商品もあるほどの超高級品です。

冬用布団で睡眠の質は変わる?

考えてる女性

先ほど、低温環境では睡眠時の覚醒時間が長くなりやすいことをお伝えしましたが、冬用の布団や寝衣を使用することで、睡眠の質は変わるのでしょうか?

寝具の保温性が十分であれば、低温環境でも睡眠段階に影響を及ぼさない

布団に潜り込んでる女性

寝具の保温性が十分であれば、室温に10℃の幅があったとしても、寝床内温度の差は僅かで済むため、低温環境でも睡眠段階に影響を及ぼしません。また、寝具を適切に使用すれば、若年者では3℃までは影響が見られないという研究結果もあります。

つまり、室温よりも寝床内温度を快適に保つことが重要であり、具体的には、季節に適した布団や寝衣を使用することが大切です。

低温環境では、入床時の冷湿感が入眠を妨げることも指摘されているため肌触りも重要

低温環境では、寝具の特性が体温調節に影響を及ぼすと言われていて、特に入床時の冷湿感が入眠を妨げる可能性があると考えられています。また、肌触りの良い寝具を使用することで、主観的な睡眠感が高まるとも言われています。

温めすぎも要注意!

寝床内加温器具の写真

低温環境への対処方法として、電気毛布などの寝床内加温器具の使用もオススメですが、暖まり過ぎた寝床内温度は体への負荷となるので、就寝前に布団を暖めるために使用し、入眠時には電源を切るようにしましょう。

低温環境では、寝具の保温性が十分であれば睡眠段階に影響を及ぼさないと考えらていますが、できれば寝室内温度を少なくとも10℃以上に保つことがオススメです。特に高齢者の方は、夜中にトイレへ行くことを考慮し、寝室からトイレまでの温度差をなくすこも大切です。

寝具で睡眠の質を変えるには?

低温環境で睡眠の質を高めるためには、入眠時は暖かく保つことができ、入眠後はしっかりと放熱・放湿してくれる、ムレない布団を選ぶことが大切です。また、暖かさや放湿性の高さだけでなく、体への負担にならない軽さ、清潔さを保てる洗いやすさも考慮しましょう。

冬用布団の選び方まとめ

四季のある日本では、その季節に合った寝具を使うことで、良質な睡眠を得ることができます。特に低温環境である冬は、冬用の布団を使用することが大切です。とは言っても、冬用布団なら何でも良いというわけではありませんので、軽くて暖かいだけでなく、ムレにくさや、清潔さを保てる洗いやすさもチェックしてください。

冬用の寝具を整えて、快適な睡眠を手に入れてましょう。

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...