うつ伏せで寝る女性

うつ伏せで寝るのは身体に悪い?メリット・デメリットや快眠のポイント

睡眠コラム

うつ伏せで寝るのは身体に悪い?メリット・デメリットや快眠のポイント

#快眠・安眠 #睡眠

うつ伏せで寝るのは身体に悪いと聞いたことがありませんか?「うつ伏せで寝ることが多い」という方は不安に感じるかもしれません。

たしかに、就寝時の姿勢は、身体への負担や疲労回復、呼吸などに関係します。 そこで今回は、うつ伏せ寝のメリット・デメリットや、仰向け寝や横向き寝と比べた特徴を解説します。

「うつ伏せで寝るのが好き」「最近うつ伏せで寝ることが多くなった」という方は、ぜひ参考にしてください。

うつ伏せ寝のメリット

うつ伏せ寝には、仰向け寝や横向き寝に比べて安心感がある、いびきを軽減できるなどのメリットがあります。

安心できる

自然界で生きる動物にとって、急所であるお腹を出して寝るのは危険な体勢です。

こういった防衛本能により、お腹が隠れるうつ伏せは人間にとっても安心感が得られる寝姿勢だと考えられています。

敷布団などと接触してお腹の温かみが増すことも、安心感が得られる要因の一つです。

いびきを軽減できる

いびきは、なんらかの原因で狭くなった上気道(鼻や喉)を、空気が通ろうとする振動によって生じます。

仰向けで寝ると重力で落ちた舌が喉をふさぐため、上気道が狭くなっていびきをかきやすくなります。

その点、うつ伏せは胸部が敷布団などに密着して横隔膜が下がるため、腹式呼吸を保ちやすい=呼吸しやすい寝姿勢です。軌道を狭めることなく楽に呼吸できるため、いびきの軽減につながることがあります。

うつ伏せ寝のデメリット

うつ伏せ寝にはメリットだけでなく、姿勢の関係で以下のようなデメリットも存在します。
  • 首や神経に負担がかかる
  • 腰痛の原因になる
  • シワやたるみの原因になる

その原因や具体的な症状を一つひとつ解説します。

首や神経に負担がかかる

姿勢はうつ伏せでも、真下を向いていると呼吸が苦しいため、顔は横を向いて寝ることが多いでしょう。

しかし、このように顔や首を左右どちらかにねじって寝ると首の神経が圧迫されて、首の痛みやコリ、痺れなどが発生します。

また、腕や手のうえに顔をのせている場合はこれらの神経も同時に圧迫されるため、手の痛みや痺れを引き起こすことがあります。

腰痛の原因になる

うつ伏せ寝は腰に重力がかかるため、腰痛の原因になりやすいと考えられています。

重力がかかって腰が沈むと、必然的に反った状態となるためです。起き上がっても「反り腰」が続くなどして背骨に負担がかかり、腰痛が生じます。

特にうつ伏せで脚を伸ばしたまま寝ると、腰付近のインナーマッスルも長時間伸びたままとなり大きな負担がかかります。

シワやたるみの原因になる

うつ伏せ寝では、基本的に顔を横に向けて寝ることになります。つまり、下になっている側の頬は寝ている間圧迫されている状態です。

こうした頬への圧迫は、皮膚の下の皮下脂肪の偏りにもつながるため、シワやたるみの原因となることがあります。

うつ伏せ寝は身体に悪い?

ベッドで横になっている女性

寝るのに適した姿勢は個人差があるため、一概にはいえません。

しかし、首や腰、腕などへの負荷を考えるとうつ伏せ寝はあまりおすすめできない寝姿勢です。

「幼いころからうつ伏せ寝が好き」という方が、すぐに変えるのはなかなか難しいかもしれませんが、なかには「最近うつ伏せ寝が多くなり、それにともなって熟睡できないことも増えた」という方もいるでしょう。

そのような場合は、寝具が身体に合っていない可能性があります。

睡眠の質を改善するためにも、現在使用している寝具が自分に適しているか一度見直してみるとよいでしょう。

仰向け寝や横向き寝との違いについて

うつ伏せ以外の主な寝姿勢としては、仰向けや横向きが挙げられます。

仰向け寝は、背中全体で体重による圧力を支えるため、最も身体への負担が少ない寝姿勢といえます。血流の循環もよいため、筋肉のこりなども発生しにくいです。
一方、先述したように重力で落ちた舌が気道を塞ぐため、いびきをかきやすいというデメリットもあります。

横向き寝は、腰の角度を自由に調整できるため、腰に負担がかかりにくいのが特徴です。舌が落ち込んで気道を妨げることも少ないため、いびきもかきにくいといえるでしょう。

ただし、長時間横を向いて寝ると、血流が悪くなって筋肉のこりや冷えの原因になります。また、いつも同じ方向で寝ていると身体の歪みにつながるため注意が必要です。

理想の寝姿勢とは?仰向け、横向き、うつ伏せ寝のポイントを徹底解説

快眠のポイントは寝返りにあり!

2つの枕と寝ている女性

ここまでうつ伏せをはじめ、仰向けや横向きなど寝姿勢のメリット・デメリットを紹介してきました。

しかし、どの寝姿勢でも長時間同じ姿勢のままだと、体重や重力による圧迫で血行不良を引き起こし、睡眠の質の低下につながります。

このため睡眠の質を高めるには、どの姿勢で寝るかというよりもいかにスムーズに寝返りを打てるかが重要です。

寝返りには血行促進だけでなく、体温調節や体圧の分散などの働きもあり、大人の場合、一晩で20〜30回打つのが理想と考えられています。

理想の寝返りをつくるなら寝具を見直そう

寝返りのしやすさは、寝具の素材や種類によって変わってきます。自分の身体に合った寝具を見つけ、睡眠の質を高めるためにも寝具選びのポイントを知っておきましょう。

枕選びのコツは「高さ」

枕は、首のS字カーブを整えて寝られるよう、自分に合った高さのものを選ぶことが重要です。

枕が高すぎると、首の骨である頸椎(けいつい)が大きく前屈することで気道が狭くなり、呼吸が浅くなったりいびきが悪化したりするためです。

反対に枕が低すぎると、頸椎が後屈して関節に悪影響を与え、寝つきが悪くなる、腕の痺れや痛みを引き起こすなどの可能性があります。

「どの高さを選べばいいの?」ブレインスリープ ピロー高さ選びのコツ

マットレス選びのコツは「弾力性」

マットレスは、スムーズな寝返りをサポートしてくれる弾力性のあるものがおすすめです。

マットレスがやわらかすぎると、背中とお尻が沈み込むことで腰に負担が集中し、寝返りが打ちにくくなります。

反対にマットレスが硬すぎると、背中とお尻に圧力が集中することで血流が悪化し、腰痛の原因となることがあるため、適度に弾力性のあるものを選ぶことが重要です。

理想の寝返りを実現できるアイテムをチェック!

「ブレインスリープ」では、理想の寝返りを実現するマットレスや枕など、快眠をサポートする様々なプロダクトを開発しています。

うつ伏せ寝と快眠のポイントを知ってぐっすり眠ろう

うつ伏せ寝には、本能的に安心感が得られる、軌道が確保できるためいびきの軽減につながるなどのメリットがあります。

一方で、腰に重力が集中するため腰痛の原因になりやすい、顔を横に向けて寝るため首の神経に負担がかかる、シワやたるみの原因になることがあるなどのデメリットがあることもたしかです。

しかし、睡眠の質においては、どの体勢で就寝するかというのは実はあまり重要ではありません。 うつ伏せ、仰向け、横向き、どの寝方でも長時間同じ姿勢をとり続けていると血流が悪化し、睡眠の質の低下につながるためです。

このため睡眠の質向上には、寝ているうちに姿勢を変える寝返りが重要となります。 寝返りには血行促進だけでなく、体温調節や体圧の分散などの働きもあり、一晩で20〜30回打つのが理想です。

「ブレインスリープ」では、脳と睡眠医学の研究に基づいて、スムーズな寝返りをサポートする枕やマットレスなど様々なプロダクトを開発・販売しています。

「睡眠の質を上げたい」「朝までぐっすり眠りたい」という方はぜひ、一度寝具を見直してみてくださいね。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...