情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

#passion-never-sleeps #特集

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。

「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」

そんな想いから始まった、毎夜の配信。

人前で話すことの楽しさに気づいた転機

──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。

はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。

それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。

──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。

はねるさん そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。

なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」

──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか?

はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。

──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…!

はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。

──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。

はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。

配信は「呼吸のようなもの」

──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか?

はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。

VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。

ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。

「平均で見る」という哲学

──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか?

はねるさん: 私は平均で見るようにしています。この仕事って常に反響を突きつけられるんですよ。他の人と比べることはもちろんですが、他の人と比べなくても、自分の一年前の視聴者数とはっきりデータが出るし、1週間前、3日前とのデータとも比べられる。なんなら30分前のデータも今の自分のデータと比べることができるじゃないですか。そう考えると、比べていたらキリがないんです。

なのでそういうことで一喜一憂しないようにしていて、結局トータルで見たら、平均するとこんなもんなんだろうなと思っています。めちゃくちゃ調子いい時もあれば、調子悪い時もありますよね。ここ最近、私は大きな病気をしたり、怪我をしたりが続いていたので、自分の中でも調子悪いなと思っていた時期でした。今は復調してきましたが、そういう時期があってもしょうがないと思うようにして、平均で見るようにしています。

ファンとの絆が支えに

──その「平均思考」を支えているのは、やはりファンの方々の存在が大きいんでしょうか?

はねるさん: もちろん私も人間なので、すごく下振れた時はちょっと気になることもあります。でも、そんな時でも必ず無条件についてきてくれるファンの方がいるんですよね。

何をやってもついてきてくれるファンの方は、もう本当に信用しているし、私が何か失敗しても、「人間だから失敗することもあるよね」とちゃんと受け入れてくれるだろうなと思えるので、絶対私を許してくれる人がいるというのは支えですよね。

──長年の活動で築いた信頼関係があるからこそですね。

はねるさん: そうなんです。ファンの方たちも最初はみんな20代後半だったのが30代半ばとかになってきているわけです。そうなってくると、本当に貴重な時間を一緒に過ごしてきたわけなので、本当に大切な関係だなと思います。

病気で学んだ「続けることの価値」

──最近、大きなご病気をされたと聞きました。その経験で価値観が変わったことはありますか?

はねるさん: 一昨年、結構大きな病気をして子宮体癌という癌にかかりました。癌の摘出手術もしましたし、最近だと急性声帯炎になって一ヶ月声を出せなかったりもしました。今まではもっと活動して、もっとすごく楽しませなきゃとか、もっと有名になれるようにこういうことしなきゃとか、そういうことばかり頭にあったんです。でも、その大きな病気をしてから、一番大切なのは続けることだなと思いました。

言い方が難しいんですが、どんなに人気でも続けられない子がたくさんいる業界なので、YouTubeという業界では、ファンの方が一番悲しむのは私がやめることで、一番喜んでもらえるのは続けることだということがわかったんです。

睡眠の重要性への気づき

──病気のご経験で、睡眠への意識も大きく変わったんですね。

はねるさん: 普段の生活で必ずやるのが睡眠だから、この仕事だから言うのではなく、睡眠の大切さを本当に実感しました。体調が悪い時はあまり寝れなかったんですよね。私は睡眠がとても得意だと言っていたんですが、体調が悪いと寝れないし、寝れなかったらそれくらい体調も悪くなる。人間の生活は人生の3分の1は寝ているわけなので、本当に睡眠って大事なんだなと思って、睡眠の質を上げることがとても重要だと感じています。

ブレインスリープとの出会い

──ブレインスリープの製品を使い始めたきっかけを教えてください。

はねるさん: 今までいろんな枕を使っていたんですが、どの枕も寝ているうちに体温で熱くなってしまうんです。熱くなった枕が気持ち悪くて、夜中に何度も寝返りを打つことになって、ぐっすり眠れないのがすごく嫌でした。

それをブレインスリープに替えた途端に、触れていてもそこが熱くならないんです。私はちょっと鈍感だから、この枕にするとすごく首が楽になったとか、そういう細かいことはわからないんですが、正確にわかるのは、触れている肌の部分が熱くならないということなんです。

マットレスについても、鈍感で何もわからない私でも、寝た瞬間「何か違う」と思ったし、起きた時の楽さが明らかに変わりました。こんなに変わるんだとびっくりしました。

愛犬たちも愛用!ペットが証明する快適さ

──愛犬たちの反応も気になります。どんな様子ですか?

はねるさん: うちの愛犬2匹と一緒に、ブレインスリープの寝具で眠っています。私が寝ると、余った部分で「きなこ」という小さい方の愛犬が寝るんです。きなこは体が小さいから、私の余ったスペースにちょこんと収まって寝ています。もう一匹の「こむぎこ」は、私がかけている掛け布団の、私からはみ出た部分を陣取って寝るんですよ。狭いのに必ずそこに入ってきて寝るから、多分とても気持ちいいんだと思います。2匹とも必ずそこで寝ますね。

ちなみに私がいない時は絶対、ブレインスリープの枕で寝ています。2匹とも。やっぱりあれが気に入っているんだなと思って、犬でもわかるんですかね?

──(笑)犬が取り合うほど気持ちいいなんて、嬉しいです!

はねるさん: そうなんですよ!特に大きい方の犬が本当に必ず奪いますね。多分犬って人間よりちょっと冷たい温度が好きらしくて、快適温度だからですかね。(笑)

睡眠の質が配信に与える影響

──睡眠の質が配信のパフォーマンスに与える影響は実感されますか?

はねるさん: 直接身体的な面では結構少ない方だと思います。ただ、精神的に気分が乗らなくなることがありますね。

睡眠時間というよりは質の方かもしれません。しっかり寝て時間を確保して寝ていても、きちんと寝れなかった、ちょっと寝苦しかったということがあると、長時間ゲームするのがちょっと辛いかなと思うことが結構あります。

私は体力的なものは強いので、例えば2日寝なくても体は大丈夫なんです。でも普通に7時間寝てもあまりいい感じの眠りじゃなかった時は、モチベーションが下がる感じがします。

──体力よりもメンタル面に影響が出るんですね。長時間配信する上では、やはり睡眠の質が重要ですね。

はねるさん: そうなんです。体は強いんですけど、やっぱり気分の方に出るタイプだと思います。寝苦しい夜があると、次の日の配信で「今日はちょっと短めにしようかな」って思っちゃうことはありますね。

未来への想い「続けることがファンへの恩返し」

──今後の目標について、お聞かせください。

はねるさん: 普段の生活の平均を上げていくということがすごく大事だなと思っています。特別なことでファンの方を楽しませることももちろん当たり前ですが、それよりも何よりも長く活動を続けることをしっかりやっていく、恩返ししていくことが大事だなと思っていますね。

 

4、5年前なら「もっと楽しいことをやるために」と答えただろう質問に、今は「続けるために」と答える。その変化は、彼女が真のプロフェッショナルとしての視点を身につけたことを示している。

夜中の散歩から帰った愛犬と共に、ブレインスリープの寝具に包まれて眠りにつく因幡はねる。明日もまた配信の時間になれば、彼女は画面の向こうでファンたちと向き合う。それは呼吸のように自然で、それでいて誰よりも真摯な、情熱の継続なのだ。

質の高い睡眠に支えられた持続可能な情熱。それこそが、因幡はねるが7年間走り続けてこられた秘密であり、これからも走り続けるための基盤なのである。

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...