情熱だけは、眠らせない。- 格闘ゲームカルチャーの仕掛け人・石井プロが語る「“好き”だけで、ここまで来た」

情熱だけは、眠らせない。- 格闘ゲームカルチャーの仕掛け人・石井プロが語る「“好き”だけで、ここまで来た」

情熱だけは、眠らせない。- 格闘ゲームカルチャーの仕掛け人・石井プロが語る「“好き”だけで、ここまで来た」

#passion-never-sleeps #特集

「+1F(プラスワンフレーム)」。格闘ゲームを愛する人たちに向けて、彼が手がけるアパレルブランドの名前だ。石井プロ。トッププレイヤーとしてではなく、映像制作やアパレルという“裏方”から、格闘ゲームカルチャーを世に広げようとしてきた男である。

「ゲームは下手くそなんですよ。でも、格ゲーが好きな気持ちだけは、無限にある」

強さでも、肩書きでもない。“好き”という一点だけで、彼はここまで来た。

“意味のないこと”に熱を上げる人が、かっこいい

──石井プロさんと格闘ゲームの出会いを教えてください。

石井プロさん: 初期衝動は、もう完全に子どもの頃なんですよ。近所のスーパーのゲームコーナーで、初めて格闘ゲームを見たとき、「なんじゃこりゃ」って。かっこよすぎて、一発でやられました。その後も、新しい格闘ゲームが出るたびに「なんだこれは」って、どっぷりハマって。

──プレイヤーとしては強かったのですか?

石井プロさん: 全然です(笑)。ただ、テレビでゲームの強い人が特集されてるのを見て、「ゲームがうまいって、こんなにかっこいいんだ」と思って。当時はまだプロなんて概念もなくて、ゲームセンターで100円払って勝っても、別に何の得にもならないんですよ。でも、そんな“意味のないこと”に本気で熱を上げてる人たちが、めちゃくちゃかっこよく見えて。その感覚は、今も自分の根っこにあります。ゲームがうまいってかっこいい、ゲームに夢中なやつってかっこいい。それをずっと、世に知らしめたいんです。

下手だからこそ見つけた、“裏方”という関わり方

──映像制作という形で、裏方的に格ゲーに関わっていかれたんですよね?

石井プロさん: 好きなんだけど、強くはない。じゃあ、この気持ちをどこに向ければいいんだ、と。格ゲーが好きで裏方に回る人って、みんな同じだと思うんですよ。強くはないけど関わりたいから、大会の運営をやったり、それぞれのやり方を探す。俺の場合は、それが「映像を作る」ことでした。

当時、格闘技イベントにあった“煽りV”の文化が本当に好きで。試合前に選手のドラマを見せる、あれです。あれを格ゲーでやったら絶対面白いと思ったんですよ。それで、安いカメラと編集ソフトを買って、見よう見まねで作り始めました。

──未経験からのスタートだったんですね。

石井プロさん: 知り合いが主催していた大会で「動画を流せたらいいよね」という話になって、「じゃあ俺、作りますよ」って。やったこともないのに(笑)。でも、1回目からわりとちゃんとできちゃったんですよ。今見たら拙いものなんですけど、当時は格ゲーの大会で映像が流れること自体がほとんどなかったので、すごく受け入れられて。「あ、できるかも」って。

──結果的に、格ゲーの大会に映像を持ち込んだ先駆けになった。

石井プロさん: そうかもしれないです。でも本当に、あの頃はまだ誰もやってなかった。拙くても、新しかったから受け入れてもらえた。そこから月1本くらいのペースで、いろんなところから声がかかるようになりました。

20年続けた家業を、手放した日

──実はもともと、ご実家の果物屋を継がれていたそうですね。

石井プロさん: 親父が倒れて、なし崩し的に引き継いで。20年くらいやってました。でも、シンプルに向いてなかった。食べてはいけるんですけど、ずっと「つまんないな」って思いながらやってて。

──転機は何だったんですか。

石井プロさん: ちょうど格闘ゲームがeスポーツとして盛り上がり始めていた頃、あるプロゲーマーの方と食事をご一緒したんです。その日、俺は格ゲーのイベントに顔を出していて。「お店(果物屋)のほうは大丈夫だったんですか?」と聞かれたので、つい冗談で「今日は仕事をサボって来ちゃいました」って答えたんですよ。そうしたら、その方が一瞬、なんとも言えない顔をして。「格ゲーに対して、その程度の本気度なんだ」ってがっかりされた気がして。本人はまったく覚えてないみたいなんですけど(笑)、俺はその表情が、ずっと忘れられなくて。

もう心のどこかでは決めてたんだと思います。それをきっかけに、「じゃあ、辞めるか」って。独り身だし、最悪なんとかなるだろうと。「格ゲーの映像でなら食っていける」っていう確信もありましたし、そんなに深くは考えなかったです(笑)。

──20年続けたお店を手放すのは、大きな決断だったのでは。

石井プロさん: それが、辞めると決めたら意外とあっさりでした。むしろ、続けてた20年のほうがよっぽどキツかったので。だから、後悔はまったくないですね。

「かっこいいゲーム文化」を、服にする

──現在は、格闘ゲームをテーマにしたアパレルブランド「+1F」のディレクションも手がけてらっしゃいますよね。

石井プロさん: これも、もともと自分からやりたいと言って始めたわけじゃなくて。ちょうど、新しく「格闘ゲームに軸足を置いたアパレルをやろう」という話が出たときに、「できそうな人が他にいないから」って声をかけてもらったんです。でも、やってみたらめちゃくちゃ面白くて。たぶん、向いてるんだと思います。

自分の中でずっとあるのは、「ゲームがうまいことはかっこいい」という感覚。格ゲーが好きな気持ちを、どう形にするか。俺にとっては、それが映像であり、服なんですよね。

才能とは、“最初からできてしまう”こと

──映像もアパレルも、割とスムーズに形になっていった印象なのですが!

石井プロさん: 才能ってなんだろうって考えたときに、俺は「最初からできるやつ」が才能があるんだと思ってるんです。その定義で言うと、映像やディレクションは、たぶん最初からできた。だから、才能があったのかもしれない。

でも、肝心のゲームは本当に下手なんですよ(笑)。話題の大作も、一体のボスに何十時間もかけて、ようやくクリア…みたいな感じで。やり込んでる時間の割に、まったくうまくならない。ゲームの才能は、本当にないんです。それでもゲームは“やっちゃう”んですよね。

“枕ゲー”に真剣になる、おじゲーマーたち

──40歳になり、体調や睡眠を意識するようになったそうですね。

石井プロさん: めちゃくちゃします。ここ数年、単純に「寝れてないな」って。午後から夕方にかけて猛烈に眠くなって、パフォーマンスがガクッと落ちるんですよ。仕事中に20〜30分の昼寝でしのいだりして。睡眠計測でも、浅い眠りの記録ばっかり出てくるくらいで(笑)。それだけ質が低い自覚は、ずっとありました。

──反応速度など、プレー面での衰えは感じますか。

石井プロさん: さすがに「ガクッと落ちた」みたいな実感はまだないんですけど、単純に、長く対戦してると疲れるようになりましたね。集中が続かない。だから余計に、コンディションを整えることが大事だなって。同世代のゲーマーで集まると、もう健康の話ばっかりですよ(笑)。「最近、血圧が」とか。睡眠もみんな関心があって、界隈では“枕ゲー”ということになってます。いい寝具は絶対使ったほうがいい、って。

逆に、若いやつらって睡眠環境なんて全然気にしてないんですよ。俺も昔はそうでした。どんな場所でも寝られたし。でも本当は、若いうちから整えておいたほうが絶対にいい。それを伝えるのも、おじさんになった今の役目かなって思います(笑)。


“ちゃんとしたところで寝る”と、こんなに違う

──ブレインスリープを実際に使ってみて、いかがでしたか。

石井プロさん: 正直に検証しようと思って、まず今までの自分の環境で寝て、次にブレインスリープをちゃんとセッティングして、寝比べたんです。そしたらスコアが明確に上がって。「ちゃんとしたところで寝ると、こんなに違うんだ」って、はっきりわかりました。

特にマットレスですね。今まで柔らかいものを使ってて、朝起きると腰が痛かったんですけど、それが全然違った。「あの疲れは、マットレスのせいだったんだ」って。今までいかにろくでもない環境で寝てたか、思い知りましたね(笑)。

──枕はいかがですか。

石井プロさん: 実は4年くらい前にも、ブレインスリープの枕を使ってたんですよ。すごく良くて愛用してました。今回あらためて使って、やっぱりいいなと。最初はちょっと硬く感じるんですけど、使っているうちに馴染んで、どんどん良くなってくる。素晴らしいものだと思います。

“何かのプロ”になりたい

──ちなみに、今さらなんですが「石井プロ」は、何のプロなんですか?(笑)

石井プロさん: それが、いちばん難しい質問で(笑)。映像編集者と名乗るのは、ちょっと違う気がしてて。格闘ゲームシーンの知識はパラメーターで言えば9とか10あると思うんですけど、映像編集のスキルは4とか5くらい。本職の編集者の方と並べられると、恐れ多いんですよ。

だから目標は、「何かのプロになる」こと。まだ本格的に始めて5年くらいで、自分の“軸”が確立しきってない感覚があって。そこはコンプレックスでもあります。

──格闘ゲームの文化そのものが、そういう“好き”で成り立ってきたところがありますよね。

石井プロさん: まさに、そういう文化だと思います。好きだけど、特別うまいわけじゃない。そんな人たちが、ずっと支えてきた世界なんです。最近ようやくお金が入って、プロの世界になってきましたけど、俺自身はまだ、そのアマチュアリズムの延長線上にいるんですよね。

考えてみたら、未経験のアマチュアが初めて作った映像を、いきなり1000人規模の会場で流すって、冷静に見たらけっこう無茶なんですよ(笑)。でも、そういう無茶が許される熱量が、この文化にはあった。俺はその良さに、ずっと助けられてきたんだと思います。

「好き」があれば、居場所はある

──石井プロさんのように、プレイヤーではない形で関わる人も増えていますよね。

石井プロさん: 格ゲーが好きだけど上手くはない人たちも、それぞれに絶対に何か別の得意なことを持ってるはずなんですよ。絵がかけるとか、めちゃくちゃ体力があるとか、英語が喋れるとか。その得意を業界に持ち込んで支えてくれたら、それはもう間違いなくプラスになる。熱量と、自分にできること。その2つさえあれば、この世界に居場所はあると思います。そういう人が増えてくれたら、俺は本当に嬉しいですね。

未来への想い「もっと外に、格ゲーの面白さを」

──今後、やってみたいことはありますか?

石井プロさん: 格ゲーには、まだまだ知られてない面白さがあると思うんです。届けば「これ、好きかも」って思う人が、絶対いる。だから、もっと外に向けて発信したい。格ゲーを見たことがない・興味がない人に、「こんなに熱を上げてるやつらがいるんだぜ」って伝えたいんですよね。

──同じように、好きなことに情熱を注ぐ人へ。「情熱だけは眠らせない」という言葉について、思うことは。

石井プロさん: 好きだから、続けられる。それに尽きると思います。強くなくても、才能がなくても、好きって気持ちさえあれば、生きていける。俺自身が、その証明みたいなものなので。だからこれからも、その“好き”を燃やし続けたいですね。

ゲームは下手だと笑う。何のプロかと問われれば、言葉に詰まる。それでも、格闘ゲームという“意味のないこと”に人生を賭けてきた男の言葉には、確かな熱がある。

好きだから、続けられる。続けるために、体を休める。石井プロが照らそうとしているのは、勝者だけの世界ではない。ゲームを愛するすべての人が輝ける、その裏側の風景だ。

質の高い睡眠に支えられた、持続可能な情熱。それこそが、石井プロが“好き”と向き合い続けてこられた理由なのである。


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情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

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情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...