汗を拭く男性

枕の臭いは大丈夫?夏も冬もひどい寝汗をかく原因とは

睡眠コラム

枕の臭いは大丈夫?夏も冬もひどい寝汗をかく原因とは

#枕

「朝起きたら寝汗でびっしょりだったけどなんでだろう?」「冬でも布団の中が蒸れている気がする」誰しもこんなことを感じたことがあるはずです。運動もしていないのに汗をかいているなんて不思議ですよね。

しかし、寝汗は全員が知らぬ間にかいているもので、なんらおかしいことではありません。
では、人はどのくらいの寝汗をかくのでしょうか。今回は夏や冬にひどい寝汗をかいてしまう理由を解説していきます。

1.夏も冬も関係なく寝汗はみんなかいている!?

ベッドに寝る女性

寝汗は誰しもかくものです。季節や年齢、睡眠環境によって寝汗をかく量こそ変わりますが、一定数の寝汗はかくようになっています。

夏なんかは気温や湿度も高く、寝汗をかいていることを実感しやすいですが、冬の寝汗はかいているのか判断がしづらいですよね。

では人は、どのくらいの量の寝汗をかいているのでしょうか。

1-1.寝汗の量はコップ一杯!寝汗には夏も冬も関係なかった

脇汗の写真

寝汗をかく量は個人差があるものの、コップ1杯程度だと言われています。

コップ1杯程度は約200mlだと考えましょう。一年間、毎日一定ではありませんが、目安としてこのくらいなんだなと覚えておくといいですね。

夏の気温が高い時期になると、寝汗の量は500~600mlになります。500mlというとペットボトル1本分にもなるので、かなりの量だということが分かるでしょう。

このことから、夏にひどい寝汗をかきやすくなるわけです。ちなみに1時間の通勤中には約200mlの汗を、1時間の運動中には1,400mlの汗をかくとされているので、意外と寝汗の量が多いことが分かります。

1-2.年齢や性別によって寝汗の量は変わる

抱き合う男女の写真

季節によって寝汗の量は変わりますが、年齢や性別によっても寝汗の量は変わります。冬なのに寝汗の量がひどくなったと感じる場合には、年齢などが関係しているかもしれません。

年齢を重ねるごとに寝汗の量がひどくなったと感じるのは、体に備えられているシステムが加齢により機能しなくなった可能性があります。

しかし、一概に加齢が原因とは言えないので、あくまでも原因のひとつとして考えましょう。

性別で見ると、男性の方が女性よりも寝汗をかきやすい傾向にあります。これは基礎体温が男性の方が高いためです。その分女性よりも寝汗をかきやすくなってしまうというわけですね。

寝汗をかく部位は男性、女性共に背中が多い傾向にあります。

1-3.シャンプーや制汗剤などで知らぬ間に寝汗をコントロールしていることも

制汗剤をかける男性

近年では、シャンプーや制汗剤の機能性が上がってきており、寝汗にもアプローチできるようになってきました。

これらは寝汗の量そのものというよりも、寝汗をかいても不快感を覚えないように作られています。そのため、本来かいている寝汗の量は変わらずとも、不快に感じにくくなっているのです。

寝汗を普段あまりかいていないと感じる方は知らぬ間に、シャンプーや制汗剤などでコントロールしていたとも言えます。寝汗をどのくらいかいているかも重要ですが、快適な睡眠時間を過ごしたいのであれば、こういった製品を活用するのもいいですね。

2.夏でも冬でも寝汗をかいてしまう原因は一体なに?

汗を拭く男性

寝汗をかいてしまう代表的な原因を解説していきます。

  • 体の構造上のこと
  • 睡眠環境の外部的な原因
  • 自律神経の問題
  • ホルモンバランスの崩れ
  • 病気の可能性

この他にも、ストレスが関係していたり、アルコールが関係していたりします。それぞれ詳しく見ていきましょう。

2-1.睡眠時には寝汗で体温を下げる

寝てる男女の足元

睡眠時には体の体温はどんどん下がっていきます。この際に熱が放出されるのが手や足の末端です。そのため、寝るときには靴下を履かない方がいいとされています。

体温を下げるには熱を放出することが大切にありますが、そこで寝汗も活躍してくれるのです。原理は運動中に汗をかくのと同じで、汗をかくことにより水分を出して体を冷やそうとしてくれています。

夏でも冬でも関係なく寝汗をかくのは、自然なことだったというわけですね。

2-2.そもそもの睡眠環境が適切でない

毛布にくるまる男性

自然に寝汗をかいているのであれば、なんら問題はありませんが、睡眠環境が適切でないために寝汗をかいているのであれば改善が必要です。

夏の暑い時期にクーラーを使用せずに寝るというのが代表的な例ですね。最近ではクーラーをつけて寝た方がいいという情報が知れ渡ってきましたが、一昔前まではクーラーは消してから寝た方がいいという情報が出回っていました。

室温が高い分、寝汗をかく量は増え、体温を下げるのが追いつかないと熱中症にも繋がるので無理せず快適な環境で眠ることを心がけましょう。
暑い夏の夜でも快適に眠るコツ!湿気や寝汗と上手く付き合おう

逆に冬の寝汗は電気毛布をつけて寝てしまったり、厚着をしすぎたりすることで量が増えます。電気毛布ではなく湯たんぽにしたり、布団で調整したりして睡眠環境を整えてみてくださいね。

2-3.自律神経の乱れで体温調節ができていない

悩む女性

ストレスなどにより、自律神経が乱れているのもひどい寝汗の原因のひとつです。

自律神経は自分の意識ではコントロールすることができないため、意識しにくいですが、寝汗に大きく関係しています。通常、睡眠時には副交感神経が優位になり、リラックスした状態へと体が移行するのが普通です。

しかし、自律神経が乱れていると交感神経が優位になってしまうことがあり、汗腺の働きを活発にしてしまいます。ストレスや緊張、不安によるものが多いので、ナイトルーティンなどでリラックスすることを心がけましょう。

2-4.ホルモンバランスが崩れている

HORMONES

ホルモンバランスの崩れも寝汗に関係しています。

前述した加齢による寝汗の増加もホルモンバランスの乱れによる部分も大きいでしょう。いわゆる更年期障害です。

その他に、女性であれば生理前にも寝汗が多くなる傾向にあります。ホルモンの分泌は脳の視床下部で調整されていますが、前述した交感神経も同時に調整されているのです。そのため、ホルモンバランスが乱れることで交感神経のバランスも崩れてしまうことが分かっています。

さらに生理前であれば、基礎体温も0.5度ほど上昇しますね。これらが重なり夏でも冬でも寝汗の量が増えるというわけですね。

2-5.ひどい寝汗の場合は病気の可能性も

冷蔵庫の前で寝る女性

夏も冬も関係なくひどい寝汗をかいてしまうのであれば、病気の可能性も出てきます。

考えられるの病気は多汗症です。局所性多汗症と全身性多汗症によっても異なりますが、一度病院へ行くことをおすすめします。多汗症になれば当然、寝汗の量が増えますよね。

他にも、甲状腺機能亢進症(バセドウ病)や糖尿病も関係してくるので、長くひどい寝汗が続くのであれば専門医に相談しましょう。

3.ひどい寝汗をかくと眠れなくなり睡眠の質が悪くなる

ベッドで悩み事をする女性

ひどい寝汗をかくことで睡眠の質は悪くなります。通常の量の寝汗であれば、睡眠の質を上げてくれるのですが、大量の寝汗になると話は別です。寝汗によって夜中に目が覚めてしまう、寝苦しさによって睡眠が浅くなるといったように睡眠の質は低下します。

1日だけであれば、さほど影響はないかもしれませんが、これが続くと慢性的な寝不足になってしまうでしょう。

寝不足でイライラしやすくなったり、仕事や勉強が上手くいかなくなったりすれば、それがストレスとなりさらに睡眠の質を低下させていきます。負のスパイラルに入ってしまうので、寝汗は早めに解決したいものですね。

4.寝汗をかくから枕や布団にはニオイが付きやすい

目覚まし時計の写真

睡眠の質が低下する他にもニオイの部分で困ることもあります。寝汗をかいているのに枕や布団はあまり手入れをすることがありません。

1日に200mlもの汗をかいて、毎日のように使っているのでニオイも付きやすくなるのです。

運動着なんかはその日のうちに洗いますが、枕や布団は週に1回程度、あるいはそれ以上の周期でしか洗ったり、干したりしないですよね。当然ニオイの成分はその分溜まっていくので、こまめに手入れをすることを忘れないようにしましょう。

5.誰でも簡単!快適に眠るための寝汗対策7選

汗をかいてる背中の写真

ひどい寝汗を改善したい方もいますよね。そこで夏でも冬でも使える寝汗の対策方法をスリーペディア編集部の方で7つに絞りました。

簡単にできるものをピックアップしたので、今日の夜から試してみましょう。

5-1.寝る前のシャンプーで頭皮のニオイ発生の予防をする

シャンプーの写真

寝汗対策をしても、全く寝汗をかかないようにするのは難しいものです。しかし、朝起きたとき、寝汗によって頭皮が臭うのは避けたいですよね。

実は寝る前のお風呂の時間を使って、あらかじめ頭皮のニオイ発生を予防することもできます。
頭皮のニオイの原因にアプローチするシャンプーも活用してみましょう!

5-2.生活リズムを見直して整える

生活のリズムを整えることで、自律神経の働きを正常に保つことができるようになります。

そのために、寝る時間や起きる時間を固定することから始めるのがおすすめです。体内時計を正確にして、朝なども時間に余裕を持たせることでストレスも溜まりにくい日常を作り出すことができます。

他にも朝は朝日を浴びる、食生活にも気を遣うなどすれば、自然と生活リズムが整ってきますよ!

5-3.寝る前にコップ一杯の水を飲む

水を飲む写真

寝る前に水を1杯飲むのも効果的です。

睡眠前に水分を摂っておくことで、汗をサラサラなものにしてくれる効果が期待できます。ベタつく汗は不快感を覚えやすく、睡眠を阻害する原因にもなるのです。サラサラの汗で蒸発しやすいようにしてあげれば、そんな悩みからも解放されるでしょう。

また、寝汗をかくということはミネラルも少なからず失われることになります。水でも効果的ですが、薄いスポーツドリンクなどでミネラルを補うのも有効ですね。

ミネラルを補うことで、熱中症や足のつりなどの対策にもなりますよ!

5-4.就寝前はできるだけリラックスをする

就寝前にはリラックスすることを心がけましょう。副交感神経を優位にして眠りにつくことで、スムーズに入眠できます。ゆったりとした音楽を聴く、アロマを焚いてみる、ストレッチをするなどなんでも構いません。

自分がリラックスできるなと思うことを実行するだけです。ナイトルーティンとして組み込むことも有効なので、少しずつ毎晩の行動をルーティン化してみてください。

すぐに効果は現れないかもしれませんが、続けることで効果を実感できますよ!

5-5.頭はできるだけ涼しくなるように意識する

赤ちゃんが寝てる写真

睡眠時に頭をできるだけ涼しくしておくことで、深い眠りにつきやすくなります。また、頭が涼しい状態になっていることで、体温も下がりやすくなりひどい寝汗を防ぐことが可能です。

布団をかぶらないようにするなどは当然ですが、枕にも気を遣ってみると効果を感じやすいです。

通気性の良い枕を使用してみる、水枕などひんやりした枕を使ってみるなど工夫をしてみてください。

朝までぐっすり!理想の正しい枕に出会う選定基準やポイントを解説

5-6.寝室・寝具を見直して快適な睡眠環境を整える

寝室や寝具を見直すことで、寝汗をかなり抑えられます。

まずはクーラーや暖房を見直してみましょう。快適な室温にすることで、寝汗は劇的にかきにくくなります。

他にも熱がこもらないような布団にするなども大切です。冬の寝汗がひどい場合には、毛布の掛け方を意識してみるのもいいでしょう。

また、前述したように枕も寝汗に大きく関係する重要なアイテムです。一度、寝室や寝具を見直してみると、改善できることろは多いと思います。

5-7.食生活を見直して寝汗の嫌な成分をなくす

野菜の写真

食生活を変えることで寝汗をかきにくくなるだけでなく、嫌な成分も変えることができます。

具体的にはジャンクフードなどの摂取を抑えることで、汗の成分が変わりニオイも少なくなるというわけです。

夜に辛い物を食べることが多い場合は、そちらも控えましょう。唐辛子などに含まれるカプサイシンは発汗作用を持ち合わせています。

寝る前に食べると寝ている最中にも効果が及ぶ可能性があるため、なるべく控えるようにしてくださいね。

まとめ:夏も冬も関係なく寝汗と上手く付き合おう!

脇をあげてる女性

夏も冬も関係なく寝汗はかいてしまいます。通常の寝汗であれば心配する必要はありませんが、ひどい寝汗だと気になるものですよね。

最後に今回の記事をまとめておきましょう。

  • 夏も冬も関係なく寝汗は一年中かくもので量はコップ一杯程度(夏は500ml程度)
  • 寝汗は年齢や性別によってもかく量が変わる
  • ひどい寝汗の原因はホルモンバランスや自律神経が関係している
  • ひどい寝汗は睡眠不足を招き、ニオイの原因にもなる
  • 寝る前に水を飲むなど、すぐにできるひどい寝汗の対策は多くある

寝汗を大量にかいているかどうかは判断が難しい部分ではありますが、今までと明らかに違うと感じた場合には、専門医への相談をしてみましょう。

何もなければ、それで問題はありませんが、病気などが関係している場合もあります。日常的にどのくらい寝汗をかいているのかなど、これを機に振り返ってみてくださいね。

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...