朝食を食べる女性

睡眠の質は朝食から!咀嚼重視の朝食の効果と上手な摂り方は?

睡眠コラム

睡眠の質は朝食から!咀嚼重視の朝食の効果と上手な摂り方は?

#食事

朝ご飯は毎朝食べていますか?どんなものを食べていますか?
朝出かける直前まで寝てしまう人やコーヒーなどで済ます人もいますが、それは覚醒を促進するチャンスを逃していて勿体ないです。

今回の記事では朝食の重要性、心がけるべき内容について紹介します。

朝ご飯をしっかり噛んで食べることのメリット

朝ご飯を適当に済ましている方やそもそも摂ってない方もいますが、きちんと朝ご飯を食べることは非常に重要です。
朝食を食べることによって、味覚や脳への刺激や活動で「覚醒が促進」され、日中活動するための「エネルギー補給」はもちろん、日光を浴びること同様に「体内時計のリセット効果」や「肥満防止効果」、さらには「記憶力アップ効果」なども得られます。

朝食にはこんなにも多くのメリットがあります。また、朝食の食材として、よく噛んで食べるものを使うとより効果的です。

なぜ咀嚼を重視した朝ご飯を食べるのか?

効果は先ほど記しましたが、もう少し詳細にお伝えしようと思います。

覚醒の促進

サラダを食べる女性

朝食を食べることで味覚が刺激され、食べる行動や咀嚼も加わり、脳が活発に働き始めます。
良い覚醒が良い睡眠を作るように睡眠と覚醒は表裏一体であるため、日中を活動的に過ごし、良い覚醒をしていることが大切です。

因みに、塩味・酸味・苦味・甘味・旨味の味覚を健全に感じるために、食事前に軽く舌の清掃をすると良いでしょう(※1)。

味覚は、舌の表面にあるボツボツした乳頭に存在する味蕾(化学物質感受性をもつ上皮細胞と求心性ニューロンの集合体)を通じて、味刺激が脳へ伝達されます(※2)。

皆さん舌表面が白くなっていることがあると思いますが、それは剥がれ落ちた粘膜細胞や細菌、食べ物のかす、白血球の残骸などが堆積した「舌苔」で覆われているためです。舌苔が厚くなると、味蕾への刺激が伝わりにくくなるので、清掃をお勧めします(※1)。

また、覚醒するための条件として深部体温の上昇がありますが、食事をすることで体温上昇が起こります。深部体温については別の記事で詳しく説明していますのでそちらをご覧下さい。

エネルギー補給

フルーツと野菜ジュースの写真

食べ物が体内に取り込まれ、分解・吸収されエネルギーとなります。寝ている間も脳は活動しており朝にはエネルギー不足となるため、日中を活動的に過ごすためには、1日の最初にエネルギー補給するのことは欠かせません。

栄養が取れない飢餓状態になると、最初に筋細胞や肝臓中のグリコーゲン(多糖類)をエネルギー源として用いますが、僅か1日で消費されます。次に脂肪細胞に蓄えられた脂肪やタンパク質が用いられます(糖新生:アミノ酸がエネルギーに用いられること) (※3)。

筋肉量が落ちると基礎代謝量が減少し、長期的には痩せにくくなりますし、タンパク質は皮膚や毛髪の原料なので、不足すると老けて見えてしまいます。

また、食べ物を摂取することのもう一つの意味として、ヒトが体内で生成できない物質(必須栄養素;例えば9種類の必須アミノ酸、特定のビタミンや無機塩類)を取り込むことです。

例えば、柑橘類に多いビタミンCが十分に取り込まれないと、貧血や壊血病、骨生成不全などを引き起こします(※4)。

気分に関係するセロトニン、及びそのセロトニンから合成させる睡眠ホルモンであるメラトニンは、必須アミノ酸であるトリプトファンから合成されます。蛋白を含んだバランス良い食事をとっていれば必須アミノ酸は摂取出来ますが、偏食のある方は気をつけてください。

体内時計のリセット

時計の写真

人のサーカディアンリズムは、「24.2時間」とされ、体温変化や光などの刺激により明暗周期への調整が行われます。

調整が行われないとフリーラン状態となり、リズムが後退していってしまいます。食事は、体温の変化やホルモン分泌を伴い、日光を浴びることと同様に、体内時計をリセットする効果があります。

肥満防止

かじられたりんごの写真

近年、肥満の危険因子として知られるメタボリックシンドローム(内蔵脂肪蓄積や空腹時血糖、血清脂肪、血圧が一定以上の値を示している場合)(※5)が増加しています。

H 18の厚労省の調査では、その予備群として、40〜74歳の方の、男性の2人に1人・女性の5人に1人が該当すると考えられています(※6)。また、朝食を取ることで肥満防止効果が得られます。ダイエットを気にして、朝食を抜く人もいますが、それは逆効果です。これからは朝食べましょう。

実際に行われた研究例として、SCNラボで行われた「噛むことと体内リズムや睡眠」についてのマウス実験を紹介します。

固形の餌を与えた個体と粉末の餌を与えた個体の比較では、粉末の餌を与え噛まずに食べた個体は、固形の餌を与え噛んで食べた個体に比べどんどん太っていきました(※7)。

副腎皮質ホルモンの一つとして「コルチゾール」と言うものがあり、コルチゾールの主な作用として、脂肪動員、血糖レベルの上昇、ストレスへの適応が挙げられます(※7)。

脂肪動員とは、脂肪細胞に蓄えられた脂肪が加水分解され脂肪酸とグリセロールになって血中に放出されることですが、要するに脂肪が分解されることを意味します。コルチゾールの分泌量の変動は、起床後1時間以内に極大となり(起床時コルチゾール反応(CAR);近年日常的なストレスの指標として注目されている)、早朝から夜にかけて単調に減少するサイクルとなっています(※8)。

すなわち、朝が一番脂肪が分解されやすいことを示しています。
因みに、分泌量が早朝に高くなることにより、寝ている間に消費し不足傾向にある体内の糖分をエネルギーに変換し起床時の血糖値の低下を防いでいると考えられています。

記憶力アップ

脳内のイラスト

学校などで「よく噛んで食べよう」「朝飯抜いたら成績が落ちる」などと言われていますが、これは実際その通りで、朝ご飯を食べることで、記憶力が向上しやすくなると言われています。

前述のマウスの実験において、固形の餌を与えよく噛んで食べた個体では、記憶をつかさどる海馬で神経新生(脳内で新しい神経細胞が生まれること)が確認された一方、粉末の餌を与え噛まずに食べた個体では神経細胞の再生が減っていることが確認されました。

因みに、海馬とは、大脳辺縁系の部分で、記憶の司令官とも言われる重要な部分です。

新しい記憶は海馬に、古い記憶は大脳皮質に納められます(※7)。以前は大人になったら脳は劣化していくだけと言われていましたが、現在では大人でも神経新生が起きていることが確認されています。年を取っても、脳は心がけ次第で若々しくもいられることがわかっているのです。

一日のメリハリ

景色のいいところで手をあげる人たち

上記のマウス実験では、固形の餌を与えよく噛んで食べた個体では、睡眠や行動パターンに昼夜のメリハリがでました。
噛むことが活動期・休息期のリズム形成に重要であることが示唆される結果となりました。

何を食べたらいいのか?

朝食の写真

良く噛むことが効果を増加させるため、良く噛む必要のある食材・献立をお勧めします。

例えば、シリアル派の場合、コーンフレークかフルーツグラノーラならグラノーラのような噛みごたえがあるものの方が効果的です。

ご飯派の場合、白米か雑穀米なら雑穀米の方が栄養素も多く噛む回数が増えるためより効果的です。また野菜炒めや煮物などの食材の切り方を少し大きめにするといった工夫の方法もあります。

また、温かい汁物は体温を上げるため、覚醒が促されます。可能なら、温かい汁物も添えると尚更効果的です。

【参考】
※1: お口の衛生についての研究, 6.味覚と舌苔
※2: レーヴン/ジョンソン生物学(下)原書第7版,p975
※3: 栄養素の役割(監修:久留米大学医学部医療安全管理部教授 田中芳明先生)
※4: レーヴン/ジョンソン生物学(下)原書第7版, p903-904
※5:厚生労働省, e-ヘルスネット, メタボリックシンドロームとは?
※6:厚生労働省, メタボリックシンドローム該当者・予備群の状況
※6: Anegawa,E., et al., Chronic powder diet after wearning induces sleep, behavioral, neuroanatomical, and neurophysiological changes in mice. PLoS One, 2015. 10(12):p.e0143909
※7: レーヴン/ジョンソン生物学(下)原書第7版, p995
※8: 野村他,微細針穿孔法による起床時コルチゾール反応の経皮的な評価. ライフサポートvol.24 No.24,2012.
※9: レーヴン/ジョンソン生物学(下)原書第7版, p957-958

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...