パソコンの前で寝ている男性

寝だめって効果あるの?ビジネスマンの睡眠負債を返済する方法

睡眠コラム

寝だめって効果あるの?ビジネスマンの睡眠負債を返済する方法

#快眠・安眠

何かと忙しい平日は十分な睡眠時間が確保できず、週末にまとめて寝だめすることで補っている方が多いかと思います。ですが、「寝だめは効果がない」という言葉を耳にすることも…そこでこの記事では、寝だめの効果や有効的な寝だめにするための情報をご紹介しています。

寝だめって効果あるの?

口を開けて寝る男性

「寝だめ」とは、休日などにまとめて睡眠をとることを指します。一般的に使用される言葉ではありますが、実際は睡眠をためるのではなく、平日の睡眠不足を補っている状態と言われています。

寝だめの効果は賛否が分かれる議論です。それぞれの理由をご紹介します。

効果があると言われる理由

以前までは、寝だめをしても毎日の寝不足を解消することはできないとされていましたが、現在では、週末の寝だめには効果があるとの見解があります。

例えば、2018年にストックホルム大学の研究チームが発表した論文によると、平日は5時間睡眠でも、週末に9時間睡眠をとって睡眠不足を補えば、死亡リスクが上昇しないそうです。

また、非常に疲れていて脳内の疲労因子が溜まっている時は、長時間睡眠によって、疲労回復因子に伴う修復が追いつくとも考えられています。

効果がないと言われる理由

寝だめには一定の効果があると言われている一方で、効果がないと考えている専門家もいらっしゃいます。

例えば、精神科医で睡眠医学の専門家アレックス・ディミトリウ(Alex Dimitriu)博士は、多少の睡眠不足なら寝だめによって取り戻せると考えているものの、睡眠不足が多く蓄積されてから取り戻すにはとても長い時間が必要で、蓄積が多すぎると完全に取り戻すことは難しくなると考えています。

また、American Academy of Sleep Medicine Foundationの元プレジデント、ジェームズ・A・ローリー(James A. Rowley)博士は、1時間の睡眠不足を補うためには、1時間多い睡眠では足りず、4日間連続で7~9時間の質の高い睡眠が必要と考えています。

例えば、1日7時間の睡眠を必要とする人が、平日に6時間睡眠が続いた場合、週末には5時間の睡眠不足が蓄積されているため、回復するためには20日間連続で7~9時間の質の高い睡眠が必要ということ。そのため、週末に睡眠時間を1~2時間増やしたとしても、それで1週間分の睡眠不足を補うことはできません。

さらに、厚生労働省の『健康づくりのための睡眠指針2014』によると、「睡眠不足が長く続くと、疲労回復は難しくなります。睡眠不足による疲労の蓄積を防ぐ ためには、毎日必要な睡眠時間を確保することが大切です」と記されています。

あくまでも日々、必要な睡眠をとることが大切で、週末などにたくさん眠ったからといって、その後の睡眠不足に耐えられるということではないそう。また、「睡眠不足が蓄積されてしまうと、休日にまとめて睡眠をとろうと試みても、睡眠不足による能率の低下をうまく補うことはできません」とも記されています。

睡眠負債と寝だめついて

目を抑える男性

「睡眠負債(Sleep Dept)」とは、「ヒトは一定の睡眠時間を必要としており、それより睡眠時間が短ければ、足りない分が蓄積する。つまり眠りの借金が生じる」という、世界一の睡眠研究所であるスタンフォード大学睡眠生体リズム研究所の初代所長ウィリアム・C・デメント教授が、1990年代から使い始めた概念です。

一般的に「睡眠不足」という言葉を使いますが、睡眠研究家は、睡眠が足りていない状態を「睡眠負債」と呼びます。睡眠が足りず慢性化してしまうと睡眠負債に陥り、脳にも体にも多大な影響を及ぼします。

睡眠負債がたまると脳のパフォーマンスが下がる

“6時間睡眠が2週間続くと、脳のパフォーマンスは、ひと晩徹夜したときと同程度になる”と言われているほど、睡眠不足と日中のパフォーマンスには密接な関係があります。

寝だめをしても、睡眠をためておくことはできず、あくまでも不足している睡眠不足を補っているにすぎません。また、多すぎる睡眠負債を、ただ多く眠るだけの寝だめによって補うことは難しいため、何よりも睡眠負債をためないことが大切です。

寝だめで注意すること

机で寝る男性

寝だめによって完全に睡眠負債を取り戻せるわけではありませんが、週末しかしっかりと睡眠をとることができないのなら、何もしないよりは週末に寝だめした方がいいと考えられています。その際に気をつけたいのが、「ソーシャル・ジェットラグ(社会的時差ぼけ)」です。

「ソーシャル・ジェットラグ(社会的時差ぼけ)」とは?

「ソーシャル・ジェットラグ(社会的時差ぼけ)」とは、仕事、学校、家事などの社会的制約がある平日と、そのような制約のない休日によって引き起こされる、就寝・起床リズムのズレのことです。体内リズムがズレることで、翌週の夜の寝つきが悪くなったり、睡眠の質が低下する可能性があるので気をつけましょう。

平日に蓄積された疲れをとるために、少し遅起きすることは問題ありませんが、朝日を浴びるタイミングがズレすぎてしまうと体内リズムの乱れにつながるので、いつもより何時間も遅く起きるのは良くありません。起床時間が2時間ズレると体内時計が狂いやすくなると言われているので、朝寝坊する際は2時間以内にしましょう。

寝だめしたい時は、いつもより早い時間に就寝し、平日と週末の起床時間を変えないことが大切です。そうすることで、寝だめに伴う睡眠リズムの悪化を防ぐことができます。

寝だめするよりもおすすめの方法

総務省の「平成23年社会生活基本調査」によると、日本人の全年齢の平均睡眠時間は、男性が7時間49分、女性が7時間36分と記されています。さらに、働き盛りや子育てに忙しい世代である、35~39歳では、男性が7時間24分、女性が7時間22分と短くなります。最も睡眠時間が短いのは男女とも45~49歳で、男性が7時間18分、女性が6時間48分となっています。

また、睡眠時間を曜日別にみると、1日(午前0時から起算する24 時間)のうち、平日が7時間31 分、土曜日が8時間2分、日曜日が8時間16 分となっており、平日に比べて日曜日は45 分長くなっているそう。

「比較可能な年齢区分である15 歳以上の人について、過去25 年間の睡眠時間の推移を男女別にみると、男女共に減少傾向となっており、昭和61 年と比べると、男性は10 分、女性は6分の減少となっている」とも記載されているように、忙しい現代人が毎日長い睡眠時間を確保するのは難しいもの。

そこで最近では、睡眠時間よりも睡眠の質に注目が集まっています。

“レム睡眠”と“ノンレム睡眠”

睡眠には、“ノンレム睡眠(脳も体も熟睡している状態)”と、“レム睡眠(体は休んでいるが、脳は起きている状態)”の2種類があります。

個人差はありますが、一般的に、入眠直後は深い眠りのノンレム睡眠の状態で、入眠から約90分後に、浅いレム睡眠に変わります。その後ノンレム睡眠とレム睡眠を約90分の周期で、一晩に4~5回繰り返し、明け方に近づくにつれ、ノンレム睡眠の間隔が短く、レム睡眠の間隔が長くなっていきます。

眠り始めの90分が重要

その中でも大切なのが、最初の90分です。「眠り始めの90分の質が悪いと、その後何時間寝ても睡眠の質が悪い」とまで言われているほど、入眠後の90分は重要です。その理由は、この黄金の90分の睡眠が深ければ深いほど、眠りたいという欲求である“睡眠圧”が放出され、自律神経とホルモンのバランスが整えられるからです

最初に訪れる、黄金の90分間では、「脳と体の休息」、「記憶の整理・定着」、「ホルモンバランスの調整」、「免疫力アップ」、「脳の老廃物を取る」といった、睡眠において重要な5つの生理現象が特に活発に行われています。

皮膚や骨、筋肉などの体に必要な要素を作るほか、細胞増殖や正常な代謝促進、アンチエイジングなどの大切な役割も果たすと言われているグロースホルモン(成長ホルモン)が、“黄金の90分”をしっかり深く眠ることでより多く分泌されたり、その後の睡眠の質も改善されるため、全体のスリープサイクルも整います。

脳と睡眠の関係ははっきりしないこともまだまだ多いですが、うつ病や統合失調症の患者は最初のノンレム睡眠が不十分なまま、すぐにレム睡眠が出現することがわかっています。こうしたことからも、最初のノンレム睡眠の質は非常に重要なのではないかと考えられています。

寝だめに頼らないために

睡眠負債が多くたまりすぎてしまってからでは、あまり寝だめの効果がありませんが、起床時間を変えないように気をつけて寝だめするのであれば、睡眠リズムを乱さずに、多少の睡眠負債を補うことができます。

毎日長い睡眠時間を確保できない方は、寝だめしなくても快適に過ごせるように、睡眠の質にこだわってみてはいかがでしょうか。

【参考】 ※ 厚生労働省:健康づくりのための睡眠指針 2014
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7003477/
総務省:「平成 23 年社会生活基本調査」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...