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敷布団の寿命は何年?買い替え目安や30年使えるマットレスについて

睡眠コラム

敷布団の寿命は何年?買い替え目安や30年使えるマットレスについて

#寝具 #快眠・安眠

快適な睡眠のために欠かせない敷布団。そんな敷布団も寿命を過ぎると様々な問題が生じて、快眠を妨げる一因になります。

では、敷布団の寿命とはどれくらいなのでしょうか?この記事では素材ごとの寿命に加え、買い替えのサインや敷布団を長く使うための方法などを解説します。


敷布団の寿命は何年?

敷布団の寿命は使用されている素材によって大きく差が出ます。

素材 耐用年数
ポリエステル 約3ヵ月〜3年
木綿わた 約3年
羊毛 約3年
合成繊維 約3年
ウレタン 低反発素材:約3年
高反発素材:約3~7年
網状体(樹脂) 約5~7年

以下では、素材別の寿命を、もう少し具体的に解説します。

ポリエステル

ポリエステルを使用した敷布団の寿命は約3ヵ月〜3年と幅があります。寿命に差があるのは、使用されているポリエステルの太さや加工方法など様々な要素が関係しています。繊維の太いものを使用している敷布団や、「ポリエステル硬綿芯」といってポリエステルのわたを圧縮したものを使用している敷布団は寿命が2年程度と比較的長い傾向にあります。

木綿わた

木綿わたを使用した敷布団の寿命は約3年ですが、打ち直しをすることで半永久的に使えるのが特徴です。そして、この打ち直しの目安が3年ごとといわれています。ご自宅で木綿わたの敷布団を使用している方は、買い替えではなく打ち直しを検討してみてください。

羊毛

羊毛を使用した敷布団の寿命は約3年です。ただし、羊毛の敷布団は福蔵素材を使用したものも多く、その場合の寿命は使用されている複合素材によって変わります。基本的にはへたりにくく、長持ちする素材です。

合成繊維

合成繊維を使用した敷布団の寿命は約3年です。合成繊維を使用した敷布団は防ダニ、防臭、消臭、抗菌、吸湿発熱など機能性に優れたものが多いのが特徴です。近年では開発が進み、弾力性や圧縮回復性を高めたものも展開されています。

ウレタン

ウレタンを使用した敷布団の寿命は、ウレタンの密度によって変わります。密度が低い低反発素材は約3年、密度が高い高反発素材は約3~7年が寿命です。近年は密度が高く寿命も長い高反発素材のウレタン敷布団が人気の傾向にあります。

網状体(樹脂)

網状体は樹脂で作られていることが多く、ウレタンと同様に密度によって寿命に差が生じます。一般的に販売されている樹脂を用いた網状体の敷布団の寿命は約5~7年です。

ちなみに、ブレインスリープのマットレスもポリエチレン樹脂製で、しっかりお手入れをすれば約30年使い続けることができます。商品の詳細は、こちらをご覧ください。

敷布団の買い替えのサイン

買い替えの時期が近づいている敷布団には様々な問題が生じます。以下に、敷布団の代表的な買い替えのサインといえる問題を挙げましたので、参考にしてください。

敷布団がへたっている

敷布団の買い替えサインのなかでも、特に気になるものが「へたり」です。購入時に比べてへたって薄くなった敷布団は体圧を分散させにくく、腰を痛めるなどのトラブルにつながります。また、保温性も低下するので快眠を妨げる可能性もあります。

底つき感がある

底つき感とは、寝ている際に身体が床にあたっているような感覚のことです。こちらも腰を痛める、底冷えするなどのトラブルを引き起こす恐れがあります。

汚れが落ちにくい

長く使用していると、皮脂や汗が原因の黄ばみなどが表れます。こうした汚れを放置することで、カビやダニが発生する恐れがあるため、その場合は買い替えを検討しましょう。なお、敷布団カバーをかけて使用することで、汚れの発生を抑えられるため、あわせてご検討ください。

においが取れない

汚れだけではなく、カビや汗などのにおいもまた蓄積します。においが気になった敷布団は買い替えのサインです。ただし、においはクリーニングで対処できるケースも多いため、まずはクリーニングに出してみるのもよいでしょう。

寿命を過ぎた敷布団を使い続けるデメリット

続いては、寿命を過ぎた敷布団を使い続けるとどうなるのか、そのデメリットを解説します。ちょっとした問題があっても「まだ使えるから」と無理して使い続けている方はぜひチェックしてください。

睡眠の質が低下する

へたって薄くなった敷布団で寝ると、寝返りを打ちづらい、寒さを感じやすいなどの弊害があります。結果、睡眠の質が低下してしまい日常生活にも支障が及ぶ可能性が考えられます。

身体に負担がかかる

底つき感のある敷布団ではまっすぐな理想の寝姿勢で寝られず、腰痛の原因になります。身体への負担を減らし、健康的な生活を維持するために敷布団の定期的な買い替えが勧められます。

アレルギー症状につながる

汚れやにおいの取れない敷布団はカビなどが発生している可能性があり、アレルギー症状の原因になります。健康を害する恐れがあるため、アレルギー症状をお持ちの方は特に敷布団の状態や寿命に気を配りましょう。

敷布団の寿命を縮めるNG行動

ここまで記載した敷布団の寿命はあくまで目安です。場合によっては寿命を縮めてしまうことがあるため注意しなければなりません。

敷布団の寿命を縮めるNG行動として代表的なのは、寝ているあいだに発生した汗や皮脂を放置することです。汗や皮脂を放置すると、中の素材にまで浸透し、雑菌を増殖させます。カビやダニを発生させて寿命を縮めてしまうので、次項を参考に正しい手入れをしましょう。

敷布団を長く使うための方法

敷布団を干している様子

ここからは、敷布団を長持ちさせる使い方をご紹介します。

敷布団の上げ下ろしをする

敷布団を敷いたまま使用し続けると、湿気が溜まって傷む原因になります。使い終わったら上げ下ろしをして、湿気を逃がすようにしましょう。

定期的に洗濯する

洗えるタイプの敷布団は、定期的に洗濯することをおすすめします。汗や皮脂を洗い流すことでカビやダニの発生を抑え、敷布団を長持ちさせることができます。ブレインスリープも採用している網状体(樹脂)の場合、乾燥が早く、簡単にお手入れ可能です。

吸湿シートやカバーを使う

吸湿シートやカバーは、敷布団に汗が直接染み込むことを防いでくれます。敷布団の傷みを遅らせ長持ちさせることができるので活用しましょう。

通気性のよい場所で保管する

敷布団を収納する際はカバーやシーツを外し、布団袋に入れて通気性のよい場所に保管します。湿気の少ない場所に保管することで長持ちさせることができます。

清潔かつ折りたためてコンパクト!ブレインスリープ マットレス フロート

敷布団の買い替えをご検討の場合は「ブレインスリープ マットレス フロート」がおすすめです。

「明日の身体を軽くする」ブレインスリープ マットレス フロート

身体の負担を軽減するフロートテクノロジー

自然と肩が内側に入り、脚が上がった体勢は、身体にもっとも負担の少ない姿勢だと言われています。フロートテクノロジーはこの姿勢を再現しています。 脚・腰・肩に合わせて最適な硬さを形成することで、身体と脳がリラックスできる姿勢を促します。脚をあげることによって血が胸元に巡りやすくなり、疲労やむくみの軽減にもつながります。

深い眠りに誘う超通気性素材

ブレインスリープ マットレス フロートは90%以上が空気層でできているマットレスです。睡眠時に発生する熱や湿気が放出され、最適な温度・湿度を保つことが可能です。快適な睡眠環境を提供します。

いつでも清潔

ブレインスリープ マットレス フロートはシャワーでの水洗いができます。加えて通気性がよいため、風通しのよいところで乾かすだけでお手入れが完了。ハウスダストやほこりが気になったら、いつでも洗うことができ、清潔な状態を保てます。

ブレインスリープ マットレス フロートのご購入はこちら

ブレインスリープには30年使えるマットレスがある?

ブレインスリープでは、マットレスの耐久性を証明するために、JIS規格の圧縮試験をおこなっています。圧縮試験は、8万回・16万回・24万回と、機械でマットレスを圧縮します。圧縮数を人が使った回数に換算すると、24万回の圧縮は、30年間マットレスを使用した場合と同程度という想定です。

ブレインスリープのマットレスは、独自素材「グリーンファイバー」を採用しており、その結果、30年使ってもほとんどへたらない、優れた耐久性を実現しています。

敷布団の寿命を知って正しい時期に買い替えよう

積み重なった布団

この記事では素材ごとの敷布団の寿命、買い替えのサイン、敷布団を長く使うための方法などを解説しました。

敷布団の寿命は素材によって異なり、短いものは約3ヵ月、長いものは約7年です。まずはご自宅で使用している敷布団の素材を確認してみてください。

寿命を迎えた敷布団は見た目、寝心地、においなどのサインが現れます。このようなサインに気付いたら買い替えを検討しましょう。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...