パーソナル スタイリスト・大日方久美子さんと料理家・谷尻直子さん

【インスタライブ】スタイリスト大日方久美子さん×料理家谷尻直子さんが語る「睡眠との向き合い方」

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【インスタライブ】スタイリスト大日方久美子さん×料理家谷尻直子さんが語る「睡眠との向き合い方」

#快眠・安眠

Instagramのフォロワー9.8万人と注目を集めている、パーソナル スタイリスト・大日方久美子さんが、同フォロワー2.3万人の料理家・谷尻直子さんをゲストとして招き、「睡眠との向き合い方」をテーマにインスタライブを開催。

睡眠の悩みや、改善するために気をつけている食生活、2人が愛用している枕『ブレインスリープ ピロー』などについてトークしました。その様子をご紹介します。

インスタライブのレポート!

『ブレインスリープ ピロー』を使い出してから睡眠の質が上がったという大日方(おびなた)さんが、料理家・谷尻(たにじり)さんに、日々の丁寧な暮らしをする中で働く女性として、母として「睡眠」とどう向き合っているかを伺いました。

Profile

大日方久美子(おびなた・くみこ)

ファッションアドバイザー、パーソナルスタイリスト。

アパレル企業を経て2013年に独立。現在はファッションアドバイザーとして、企業とのコラボレーションやパーソナルスタイリストとして活動中。著書に「“エレガント”から作る大人シンプルスタイル」(KADOKAWA)がある。

谷尻直子さん(たにじり・なおこ)

料理家

ファッション業界を経て料理家に転身し、現在は東京都渋谷区にある、週に1度しかオープンしない完全予約制レストラン「HITOTEMA」の主宰でもある。「現代版のお袋料理」をコンセプトに、ベジタリアンだった経験や、8人家族で育った経験を活かし、お酒に合いつつも体が重くならないコース料理を提案。 著書に「HITOTEMAのひとてま 」、「HITOTEMAのひとてま 第二幕」(共に、主婦の友社 )がある。

睡眠の悩みを改善するためには、食事と寝具が大切

仕事と子育てに奮闘し「普通の人より3倍くらい動くような生活をしている」と言う、谷尻さんの睡眠悩みや、2人が良質な睡眠を得るためにこだわっている食生活と寝具について話しました。

私は、スムーズに入眠はできるけど、3〜4時間で目が覚めてしまう「中途覚醒」タイプだから、運動も食生活も最大限の努力をして、睡眠の質を上げたいと思っているの。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん大日方さん
浅い7時間の睡眠よりも、深い3〜4時間の睡眠の方が、翌日に疲れが残らないと思う。良質な睡眠をとることで生活の質が上がるから、睡眠時間が短い人こそ、睡眠の質にこだわることが大切だよね。

少量で胃腸に負担をかけない夕食を選ぶ

大日方さん大日方さん
私は基本、夜ご飯を食べないんだよね。食べすぎると眠れないし、たまに食べると消化に体力を使われてしまって、朝起きたらぐったりしている。スッと入眠して朝スッキリ起きるためには、食べないか、腹5分目を意識するといいと思う。
食事量や内容はもちろん、食べ物を噛む回数が少ないと唾液と混ざらずに胃へ入るから、胃腸に負担がかかって眠りが浅くなると思う。だから夜ご飯は少なめにしてよく噛むことが大切。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん 大日方さん
食事のほかに、ハーブティにもこだわっているよね。
そうそう。眠りにいいハーブティといえば、バレリアンやカモミール。睡眠の質にこだわりたいから、睡眠環境が変わる旅行先にも持参するの。
谷尻さん 谷尻さん

睡眠を妨げないように、夜の食事や飲み物に気を使っているお2人。さらに寝具にもこだわっているそう。

ホルモンバランスの乱れと向き合う“大人の女性”は、寝具にこだわるべき

大日方さん 大日方さん
40代になると、女性ホルモンのバランスが崩れるという、避けられない壁にぶつかるよね。だから生活習慣や食事、寝具などで睡眠をコントロールすることが大切。
私も、手足は冷えているのに頭や顔が熱くて眠りにつきにくいことがある。おばあちゃんの時代から言われている「頭寒足熱(ずかんそくねつ)」のように、質の良い睡眠には、効率的に頭の温度を下げる必要があるんだよね。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん 大日方さん
そうだね。大人な私たちが良質な睡眠を手に入れるためには、体温を調整してくれる寝具が必要。少し高級品だとしても、毎日使うことを考えると決して高いお買い物ではなく、むしろ必要な投資だと思う。

ブレインスリープピローのオススメポイント

睡眠の質を大きく変える寝具。お2人が共通して使用している『ブレインスリープ ピロー』のオススメポイントについて語ります。

ブレインスリープピローとは?

ブレインスリープの看板商品『ブレインスリープ ピロー』は、脳と睡眠研究によって生まれました。睡眠の質を左右する「黄金の90分」に注目し、脳を冷やすことで睡眠の質を高める枕です。さらに、特許を取得した3層構造になっており、1番上のふんわりとした層が、7日間かけて自分の頭の大きさや重さに合わせて変化するため、オーダーメイドのようなフィット感を感じることができると人気です。

二人が愛用している理由とは?

大日方さん 大日方さん
睡眠の研究について書かれた、ベストセラー書籍『スタンフォード式 最高の睡眠』を読んだ時、理論の話にすごく納得して「これは試すべきもの!」と思って枕を購入したのがブレインスリープとの出会い。頭の熱を放出することに注力したブランドで、脳科学や睡眠に関する研究の集大成だと思う。
久美ちゃんと誠(夫)が勧めてくれて使い始めたの。寝具は頻繁にトライアンドエラーできないから、信用できる商品を使いたいよね。「ブレインスリープピロー」は、頭を乗せた瞬間から全然違うし、使うたびに自分の頭の形にフィットしていく枕だから、すごく気持ちいいの。以前よりも、3〜4時間で目覚めてしまう回数が減ったから、もう手放せない必需品だよ。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん 大日方さん
テレビ番組で、多忙なタレントさんが愛用していると紹介したことをきっかけに、ずっと完売状態だったんだよね。それが最近、やっと生産が追いついて、購入できるようになったみたい。
一度使ったら大切な人に勧めたくなるよね。羽毛や羽根と違って動物の臭いがしないし、自宅のシャワーで丸洗いできるからお手入れが簡単で、清潔な状態を維持できるから嬉しい。45〜50度のお湯につけることで、購入時のふっくら感が戻るから、半永久的に使用できるのもポイント。
谷尻さん 谷尻さん

『ブレインスリープ ピロー』では「LOW」「STANDARD」「HIGH」 の3つの高さの枕をご用意しています。インスタライブ中、「どの高さを使用していますか?」というコメントに、お2人とも「LOWサイズを使っています」と回答。さらに、「枕が高いと首にシワができやすいから、女性には絶対LOWがオススメ」と、大日方さんがアドバイスするシーンもありました。

子どもも犬も、本能でブレインスリープを選ぶ

谷尻さんの息子さんも、大日方さんの飼っている犬たちも、ブレインスリープの枕やマットレスがお気に入りだそう。

私が『ブレインスリープピロー』使っていたら、7歳の息子が私の枕を勝手に使って眠るようになったの。枕の構造や情報を知らない子どもが、本能で心地のいい枕を選んでいるってこと。睡眠の質が上がったのかイライラすることが少なくなったから、子ども用の小さいサイズの枕も買ったんだ。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん 大日方さん
飼っている犬たちも、自分たちのベッドで寝ていると熱くなるみたいで、『ブレインスリープピロー』の上に乗ってくるようになったの。さらに同じ素材の『ブレインスリープ マットレス』を使うようになったら、今まで布団の上で寝ていた犬たちが、布団の中に入って直接マットレスの上で寝るようになり、熱くて起きてウロウロしていたのが朝までぐっすり眠るようになったことに驚いた。
子どもも犬も、動物的な本能で、快適に過ごせる場所を見つけているんだね。
谷尻さん 谷尻さん
大日方さん 大日方さん
大日方さん そうそう。そんな犬たちの行動を見て、熱を放出してくれるマットレスを犬たちにも使って欲しいと思い、ブレインスリープとコラボレーションして、同じ素材を使った『ブレインスリープ ノーミンペットベッド』を作ったんだ。
快適な寝具を使うことで、睡眠の質が上がるのは、大人も子どももペットも同じ様子。そして睡眠の質にこだわることが、日常生活を充実させるために大切だと言います。

「NOMIN ペットベッド 大日方久美子」とは

NOMIN ペットベッド 大日方久美子

犬や猫などのペットにおいても睡眠と健康が深く関係しており、健康な心や身体を整えるために睡眠は重要であるといえます。特にシニア犬においては、睡眠時間が長くなることや、免疫力・筋力の低下などの観点からよりケアが必要となります。一方、現在市場にあるペットベッドは睡眠学の観点から考えられたものはなく、また衛生面を考え、すべてが丸洗いできる設計がされているものもほとんど見られませんでした。

そんな中、ブレインスリープのメインアイテムである「ブレインスリープ ピロー」がペットにも人気であることがSNSでも話題になっており、是非ペットにも睡眠時間を快適に過ごしてほしいという想いから、幼いころから保護犬と生活し、現在もシニア犬を含めた4匹の保護犬と生活をしているパーソナルスタイリストの大日方久美子さんと一緒に、機能性に注力し、さらにデザイン性も加味したペットベッドを開発しました。

睡眠の質にこだわると日常のパフォーマンスが上がる!

大日方さん 大日方さん
頭に熱をこもらせないことが、上質な睡眠に繋がり、日常生活のパフォーマンスが上がるのは、この年齢になってわかること。大人が投資するべきアイテムは自分に合った寝具だと言い切りたいくらい私は眠りを大切にしている!
私たちは、自分の明日や未来のために使うものを選ぶことができるから、きちんと選んで最良な睡眠を手に入れたいね。
谷尻さん 谷尻さん

疲労回復やストレス軽減など、心身ともに大切な睡眠についてトークした、インスタライブの様子をご紹介しました。お2人のように食生活や寝具にこだわって、良質な睡眠を手に入れましょう。

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ブレインスリープ編集部

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...