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【冬の睡眠術】睡眠は暖房と加湿で変わる!部屋の暖め方がポイント

睡眠コラム

【冬の睡眠術】睡眠は暖房と加湿で変わる!部屋の暖め方がポイント

寒い日が続く冬は、ベッドに入ったものの「寒くて寝つけない」、朝起きて「ベッドから出られない」という話をよく聞きます。実際に思い当たる節がある方も多いでしょう。

これらの悩みは、暖房器具を使って上手に部屋の温度調節をすることで解決します。

では実際に、寒い時期の寝室の温度調節はどうすれば良いのでしょうか?今回は寒い冬によく寝るための、冬の睡眠術についてお伝えします。この記事を読めば、冬の睡眠習慣を一気に変えることができますよ!


1.睡眠時に暖房を付ける際は寒すぎても、暑すぎてもダメ

スマホで温度調整

冬は部屋の環境温度が下がり、布団の内部の温度も下がってしまいます。布団に入ったときに、布団の中が寒いと感じると、まずは温度を上げようとします。人間の体は、寒さに反応して体温を上げようとするのです。このとき、交感神経が興奮し、手足を動かして体温を上げようとします。そうすると脳も覚醒するので、スムーズに寝付くことができなくなることが多いです。

また、交感神経が興奮すると手足の血管が収縮して熱を逃がさないように働き、深部体温の低下を妨げます。こうならないためには、布団に入った時に、「寒い」と感じないようにすることがポイント。

そのために、寝る前は部屋と寝具をしっかり暖めておきましょう。 部屋が暖かく、暖かい布団に包まれれば、副交感神経が働き、全身がリラックスした状態に。手足の血流も良くなり、スムーズに手足から熱が放散されるので、深部体温も徐々に下がっていきます。暖かい布団を準備しておくことで、冬でも落ち着いて、幸せな気持ちで眠りに入ることが出来るのです。

2.冬の睡眠を快適にとるためにできること

体育座りする女性

寒い冬でも快適に眠りたいと思うのが当然です。ブルブル震えながら寝るのは誰でも嫌ですよね。では、少しでも冬の睡眠時間を快適に過ごすにはどうしたらいいのでしょうか。4つのポイントを解説していきます。

2-1.布団に入るときに暖房をOFFにする

暖房をオフにする女性

ベッドに入る時点では、しっかり部屋や寝具を暖めておくことが大切ですが、暖かい状態が続くのは好ましくありません。深部体温は下がった方が、深い睡眠がとれるので、部屋の温度も自然に下がるようにしてあげましょう。

そのために「布団に入る時に、暖房をOFF」にします。すると、部屋全体の温度が徐々に下がって、手足からの熱の放散もスムーズに進み、深部体温が下がるとともに深い睡眠に入っていけるのです。

布団の中の温度は、33℃前後が適切と言われます。徐々に熱が放散し、布団の中の温度は、体温を逃がさない程度の温度に落ち着いてきます。

地域によっては、完全に暖房を切ってしまうと、寒くなりすぎる場合があるので注意しましょう。寒くなりすぎると、人間の体は生存のために体温を上げようと反応するので、逆に目が覚めてしまいます。

暖房を切ってしまうと寒くなりすぎる場合には、設定温度を低くして、暖房をつけたまま寝るのもひとつの方法です。

2-2.しっかり着込んで体幹は暖かく!

布団に入る女性

冬でも、毛布にくるまりながら、薄いパジャマで寝る方がいます。しかし、夜間部屋の温度が下がった場合や布団が剥がれた場合に、極端に体が冷えてしまうこともあるのです。体が冷えすぎると、睡眠が浅くなり途中で覚醒することになったり、風邪をひいて体調が悪くなったりします。寝巻きやパジャマはしっかり厚手のものを着て、体幹を冷やさないようにしましょう。

着込みすぎると、暑くて体温が上がるので良くないのではと考える方もいるかもしれません。しかし、部屋の温度が適切であれば、熱は手足からしっかり放散されて、深部体温は調節されるので大丈夫です。冬は、体幹を冷やさないように、腹巻や保温効果のある下着を着て寝るという方もいます。このように体幹を冷やさない工夫をしてみましょう。

2-3.睡眠中は靴下を履いたままでも大丈夫?

靴下の写真

「足が冷えるので、靴下を履いて寝ている」と言われる方がいます。女性に多いのですが体温調節の点からは、靴下は足からの熱の放散を妨げるので、睡眠にとっては良くありません。

靴下を履いて寝るという方は、お風呂上がりは暖かいので裸足で過ごし、布団に入るときに足が冷えているので靴下を履くという方が多いです。靴下を履くのであれば布団に入るときに靴下を履くのではなく、お風呂で温まったあとに、足を保温するために使いましょう。

足を保温するポイント

  1. お風呂にしっかり浸かり、足を温める。シャワーであれば、洗面器にお湯をため、足をつけて足湯でしっかり温まる。
  2. お風呂から上がったら、すぐに靴下を履いて、足が冷えないようにしておく
  3. 寝る前にしっかり部屋と布団を暖めて、寒さを感じないようにしておく

そして、布団に入る時に靴下を脱ぐのがおすすめです。寝る前に、手のひらや足裏をマッサージするのも良いでしょう。足の血流が良くなり、手足の冷えが改善します。布団に入ったときに寒さを感じず、スムーズに熱が放散されていくのでお試しください。

お風呂あがりにすぐに靴下を履いて、温めた手足を冷やさないようにしておいて、寝る時点で靴下を脱ぐ。暖まった布団の中で、ゆっくりと熱を逃がしていくのがポイントです。

2-4.冬の朝は暖かくして元気に布団から出る!

背伸びをする女性

寒い冬は、朝方、布団から出るのがおっくうになるものです。

「子どもがなかなか起きないので、思いっきり布団をはがして、寒さで目を覚ましてやります」という親御さんの話を聞いたことがあります。結局、この子は、また布団に飛び込んで起きることが出来ず…。今は不登校気味になっているようです。

寒さから身を守ろうとするのは、人間の正常な反応です。寒いときには、布団にくるまって、体温を保とうとします。布団の外に出ると、寒い世界が待っていると思うと、それだけで体が萎縮するのです。

寒い冬は、起床の30分程度前から暖房を入れて、部屋を暖めておきましょう。 部屋が暖かければ、体もスムーズに動いて、前向きに布団から出ることができます。 寝起きの感覚は1日の気分にも影響しますので、しっかり部屋の温度も上げて、暖かい冬の朝を幸せに迎えましょう。

3.質の良い睡眠を!冬の寝室の最適温度は何度くらいがベスト?

温度調整の写真

体感や時期によっても多少異なりますが、冬に寝る際の寝室の温度は「20℃前後が最適」です。

16℃以下になると寒さを感じて目が覚めてしまうこともあるので、出来れば16℃以上はキープしたいところ。寝る前は、23℃以上の設定で寝室を暖めておきます。機密性の良い部屋であれば、暖房を切って寝ても温度が下がり過ぎることはないので、体の熱を上手く逃がすためにも、寝る時点で暖房は切って寝るのが良いでしょう。

温度を保てない部屋であれば、18〜20℃程度の設定で暖房を入れたままで寝ます。 省エネの観点からは、暖房は最小限にしたいところですが、睡眠の質を保つため、体調を維持するためには、暖房を効果的に使用することも必要と考えましょう。

4.冬の乾燥は肌にも睡眠にも大敵!加湿で対応しよう

加湿器の写真

冬の睡眠環境管理では「温度」だけでなく「湿度」も大切です。冬は、湿度が極端に下がります。 湿度40〜80%が適切と言われていますが、冬場は湿度を40%以上にするのも、案外難しいものです。

湿度を上げるためには、加湿器を使用するのが良いでしょう。エアコンの暖房を使う場合などは、すぐに湿度が下がるので、湿度は高めに設定して下さい。しっかり加湿器を使っても、冬場は湿度40〜50%を保つのがやっとだと思います。

加湿器が無い場合は、洗面器にお湯を張って、部屋に置いておくと良いでしょう。冷たい水よりも暖かい水の方が気化しやすいので、暖房器具の近くに置いておくと効果があります。ホテルなどでは、お風呂にお湯を張って扉を開けておくのがおすすめ。

湿度が下がると、皮膚が乾燥して、肌の潤いも無くなります。さらに、喉が乾燥して風邪をひきやすくなったり、鼻や喉が乾燥して、睡眠途中で目が覚める原因にもなってしまうのです。

また、冬場でも寝ている間に汗などで水が奪われて、脱水になります。脱水状態は、脳梗塞のリスクが上がることにもつながります。乾燥が強いと脱水も進みますので、湿度を保って冬の脱水も予防しましょう。

5.睡眠に欠かせない!寝具にもこだわって冬でもポカポカ

コップを持つ女性

冬は寒くなるため、掛け布団を何枚も重ねて寝ている方がいます。しかし、掛け布団が多くなると、重量が重くなり、上から圧迫されて体の動きが取りにくくなります。

また、毛布を敷いて寝ている方もいますが、敷毛布があまりにふわふわになると寝返りを打ちにくくなるのであまり良くありません。毛布を敷くこと自体は問題ありませんが、柔らかくなりすぎないようにしましょう。

理想的な敷マットは、やや硬めの弾力のあるマットで、掛け布団は軽く保温性に優れたものです。少し高価ですが、羽毛ふとんは軽く保温性に優れているため、睡眠にとっては理にかなった掛け布団と言えます。

「電気毛布や湯たんぽ(あんか)を使った方が良いのか?」という質問も良くありますが、体温が下がるのを妨げる可能性がありますので、高温で使い続けるのはあまり良くありません。電気毛布や湯たんぽは寝つきを良くするために布団を暖めや寝始めてだけに使うようにして、就寝と同時に電気を切るか、低温にするのが良いでしょう。

布団の中だけ暖かくするのでなく、部屋全体の温度が下がりすぎないようにするのが基本です。

まとめ:寒い日の睡眠は暖房を上手く使いましょう!

エアコンを操作する写真

寒い冬の日でも、暖房をうまく調節して温度を適切に管理すれば、質の高い睡眠が得られます。基本は、以下の2点を覚えておけば大丈夫です。

  • 寝るときと起きるときは暖かく
  • 寝た後はスムーズに体温が下がるようにする

人間の体は、暑すぎても寒すぎても、自然に体が反応して睡眠が妨げられてしまいます。 部屋が寒くなりすぎる場合は、光熱費はかかりますが暖房を続けて使い、睡眠に影響のない温度に保ちましょう。

欧米に比べて日本の家屋は機密性が低く、隙間風が入り、温度が低くなる傾向にあると言われています。部屋の温度を2度上げただけで、寿命が延びたという研究結果もありますので、暖房を上手く使うことが睡眠や健康をよく保つための大きなポイントです。








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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...