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自律神経と睡眠の関係性「不眠」と「快眠」への影響とは?

睡眠コラム

自律神経と睡眠の関係性「不眠」と「快眠」への影響とは?

#不眠 #快眠・安眠

最近、布団に入ってからの寝付きが悪く、目が冴えてしまう日が続いている…という方は、もしかしたら自律神経のバランスが乱れているのかもしれません。

この記事では、睡眠と自律神経の関係性や、スムーズに交感神経から副交感神経に切り替えて良質な睡眠を得る方法などを解説しています。

自律神経と睡眠は関係している?

自律神経が乱れると体内時計も乱れてしまうため、寝付きや目覚めのリズムが崩れたり、睡眠に関する不調が起こりやすくなります。

また、もともと自律神経が整っている人でも、睡眠不足が続くことで自律神経が乱れてしまうなど、睡眠と自律神経は相互作用の関係にあります。

自律神経とは?

脳のイメージイラスト

自律神経とは、内臓の働きや代謝、体温調整などの身体機能をコントロールしている神経で、人の意思とは関係なく、毎日24時間働き続けています。

自律神経には、昼間や活動している時に活発となる「交感神経」と、夜間やリラックス中に活発となる「副交感神経」の2種類があり、この2種類の神経のバランスにより、心身の調子が変化します。

例えば、交感神経が優位に働くと、血圧や血糖値の上昇、瞳孔の拡大など、心身が興奮状態になります。

一方、副交感神経が優位に働くと、血圧下降による心拍数の減少、瞳孔縮小、体温の低下など、心身の緊張がほぐれやすくなり、休息状態となります。睡眠や休息によって疲労回復が期待できるのも、副交感神経の働きによるものです。

自律神経が乱れる理由

自律神経が乱れた状態とは、交感神経と副交感神経のバランスが崩れた状態です。様々な原因によって、交感神経が過剰に働くと、夜になっても眠れない、不眠などの症状が現れることがあります。

ストレス

ストレスを受けると、交感神経が興奮状態となり、「コルチゾール」や「アドレナリン」というホルモン物質が分泌されます。

コルチゾールとアドレナリンは、いずれも人体にとって必要なホルモン物質で、心拍数や血圧、血糖値の上昇、免疫抑制、胃酸の分泌促進などを引き起こす作用があり、交感神経が優位になります。しかし、ストレスによって慢性的に分泌され続けると交感神経が優位な状態が続き、その結果、本来であれば切り替わるはずの副交感神経とのバランスが崩れます。

生活習慣(リズム)

昼夜逆転の不規則な生活や睡眠不足が続くような生活習慣の乱れは、交感神経が優位になる時間帯が長くなります。また、睡眠直前までスマートフォンやパソコンを見ると、副交感神経が優位に働かず、自律神経の乱れに繋がります。

過度な偏食にも注意が必要で、自律神経のバランスを保つために必要な栄養が不足しないように気をつけましょう。

季節や環境の変化

季節の変わり目は、気候が不安定だったり、進学や進級、就職、転職、異動など、環境が変化するライフイベントが多くなります。

そのため、気候への適応による身体的な負荷や、不安やプレッシャーなどのストレスによって、自律神経のバランスを崩しやすくなります。

更年期等によるホルモンバランスの変化

脳の中で、ホルモンバランスを司る場所と、自律神経のバランスを調整する場所が近い位置にあるため、ホルモンバランスが乱れることで自律神経も乱れる場合があります。

例えば、女性ホルモンが急激に減少して起きる更年期障害は、ホルモンバランスの乱れを引き起こす原因として有名です。

自律神経の乱れチェック

不安やイライラ、不眠、疲労感、頭痛、肩こりなど、自律神経が乱れている時に現れやすいと言われている症状を20項目ご紹介します。自覚症状のある項目にチェックを入れてください。

自律神経セルフチェック

  • すぐに疲れる(だるさ・倦怠感)
  • やる気が出ない(根気が続かない)
  • いつも不安(これから先の自信がない)
  • 人に会いたくない気持ちが強い
  • 集中力がなくなる
  • 思考力、決断力が低下した気がする
  • 理由もなく(またはなんとなく不安で)イライラする
  • 動悸や息苦しさを感じる
  • 風邪をひく回数が多い
  • むくみが気になる
  • 頭痛がある
  • 腰痛がある
  • 便秘または下痢の症状がある
  • 手足が冷たい
  • 手足が痺れる
  • 肩がこりやすい
  • 緊張しやすく、ストレスを受けやすい
  • 十分な時間寝ても疲れがとれない(朝、気分がスッキリしない)
  • 朝、予定よりも早く目が覚める
  • 肌は乾燥気味、髪はパサパサしている

20項目のチェックリストのうち、当てはまる項目が多い場合や、1つでも当てはまりその症状が慢性化している場合は、自律神経が乱れている可能性があります。また、自律神経の乱れが慢性的に続くと「自律神経失調症」になることもあります。不安に感じる方は、早めに医療機関を受診しましょう。

快眠に繋がる自律神経の整え方

寝起きの女性

自律神経が乱れると、不眠になるだけでなく、心身に不調が現れる恐れもあるので、セルフケアで自律神経を整えましょう。

1:朝日を浴びて体内時計をリセット

人の体には、昼は活動的に、夜は休息状態に切り替わる体内時計が備わっています。その体内時計は、朝に強い光を浴びることでリセットされ、約14~16時間後に睡眠をつかさどる睡眠ホルモンの“メラトニン”が分泌されます。そのため、朝に体内時計をリセットしておくことで、夜になると自然と眠くなり、規則正しい睡眠リズムを身に付けることができます。

起きたらまずカーテンを開け太陽の光を15秒ほど浴びるのがオススメです。太陽光の照度はとても高いので、曇りや雨天の日でも効果があります。

2:日中、交感神経をしっかり活動させる

夜に副交感神経を優位に働かせるためには、日中にしっかりと交感神経を優位に働かせておくことが大切です。

例えば、日中に運動をすることで、夜、副交感神経への切り替えがスムーズになります。特にデスクワーク中心の方や、車移動などで体を動かさない方は、仕事で頭が疲れていても、体が疲れていないために眠れないことがあります。その場合は、意識的に体を動かすようにしましょう。

3:軽いストレッチ

血流の悪さも自律神経に影響を与えるので、軽いストレッチをして血流を良くしたり、筋肉をほぐすこともオススメです。

デスクワークの多い方は、座ったままできるストレッチを取り入れましょう。

4:寝る前にはスマホを見ない

スマートフォンやパソコンの画面から発生するブルーライトは、睡眠を促すメラトニンの生成を抑制する働きもあり、眠りの妨げになります。覚醒作用があるだけでなく、ベッド内で強い光を浴びると体内時計が狂ってしまい、寝付きの悪さに繋がります。また、ブルーライトを発生する光源を長時間見ることは目への負担にも。入眠の1〜2時間前からは、デジタルデトックスするように心がけましょう。

さらにスマートフォンからは大量の情報が入ってくるため、興奮して寝付きが悪くなったり、睡眠中に着信音が鳴ったり振動すると眠りが浅くなってしまうので、枕の近くに置いたまま眠るのは控えましょう。

副交感神経に切り替える方法

忙しい現代人は、夜になっても交感神経が優位に働いてしまうことが多いので、睡眠前に心身の緊張を解いてリラックスすることが大切です。入浴やアロマ、ハーブティー、ツボ押しなどで、副交感神経を優位に切り替えましょう。

1:入浴

人は、一度上がった体温が下がるタイミングで眠気を感じるので、眠る1~2時間程度前に、38℃程度のぬるめのお湯で25~30分ほど入浴しましょう。入浴は、一時的に体温を上げることができるほか、筋肉がほぐれたり、副交感神経が優位になってリラックス効果を得られます。

腹部までつかる半身浴の場合は、40℃程度のお湯に30分ほど入浴すると同様の効果があります。 ただし、入眠直前に42℃以上の熱いお風呂につかると交感神経が働くので、どうしても熱いお湯につかりたい場合は5分程度にしましょう。

2:アロマ・ハーブティー

アロマは、シーンによって使い分けるのがオススメです。例えば、リビングではレモンやグレープフルーツなどの柑橘系やローズマリーなどの香りで、リラックス効果とともにスッキリとした気分を味わい、寝室では、ラベンダーやクラリセージ、オレンジスイートなどの香りで、リラックス効果と質の高い睡眠を得ましょう。

ただ、香りは個人の好みもあるので、ご紹介した香りが必ずしも良いというわけではありません。日中を過ごす場所はスッキリする香り、寝る前に過ごす場所はリラックスできる香りといったように、お好みの香りを使い分けてみてください。

3:ツボ押し

体が疲労していたり悩みやストレスを抱えていると交感神経が優位に働くため、なかなか寝付けないことがあります。そんな時は、副交感神経を優位にするツボを押してみましょう。

睡眠の質を高めたいあなたには

自律神経を意識して快眠を手に入れる

自律神経のバランスが乱れると、不眠や睡眠の質の低下だけでなく、不安や緊張感、だるさ、頭痛、肩こりなど、様々な症状が現れてしまいます。毎日を楽しく過ごすためにも、自律神経を意識した生活を送って、快眠をサポートしましょう。

すでに自律神経の乱れが気になる方は、一度医療機関を受診しましょう。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...