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寝起きに体温が高いのはなぜ?睡眠中の体温コントロールが重要な理由

睡眠コラム

寝起きに体温が高いのはなぜ?睡眠中の体温コントロールが重要な理由

#快眠・安眠

コロナ禍になり、こまめに検温するようになった方が増えたかと思います。一般的に運動後や食事後は体温が上がるため、定期的な検温は起床直後が良いとされていますが、寝起きに検温した際に、体温が平熱よりも高くて不安になった経験のある方もいるのではないでしょうか。

この記事では、寝起きに体温が高い理由や、体温と睡眠の関係、睡眠時の体温をコントロールする方法などについて解説します。

寝起きは体温が高くなる?

熱を測り電話する女性の写真

「寝起きだから体温が高いのは当然」と思う方が多いかと思いますが、実は“寝起き=体温が高い”というわけではありません。むしろ、人の体温は、朝の時間帯が一番低く、夕方が一番高くなる仕組みになっていて、個人差はありますが、朝と夕方の体温差が1℃以内であれば体調面に問題はないと考えられています。

1日の中で、体温は変動する

人の体温は1日中一定なわけではなく、一般的に、朝起きてから夕方まで上昇し、ピークに達した後は下降に転じて、明け方には一番低くなり、この変動は1℃程度あると言われています。年齢を重ねるにつれて体温変動は小さくなりますが、快適な睡眠を得るためには、日中と睡眠中の体温変化を適切に保つことが大切です。

また、体温は気温だけでなく、感情やストレス、食事などで変化し、女性は月経周期によっても異なるので、測った体温がいつもより高くても、体調に明らかな変化がない場合は、そこまで健康面に不安を覚える必要はありません。食事後は体温が上がるので、より正しい体温を測りたい方は、寝起きと夕食前に1回ずつ測りましょう。

布団やパジャマの影響で熱がこもる?

寝起きに体温が高いのは、布団やパジャマに熱がこもり、その結果として体温が上がった可能性があります。

寝具に熱がこもるのは、温度と湿度に原因があります。まず、春夏秋冬の季節によって、布団の中の温度が変化します。暖かい季節は外気が高くなるだけでなく、人の体も寒い季節と比べると熱くなるので、布団の中に熱がこもりやすくなります。

そして冬は、防寒対策のしすぎで熱がこもる場合があります。布団に入った直後は熱く感じませんが、布団を重ねすぎているとだんだん熱がこもり、寝苦しくなってしまうことも。

また、人はひと晩にコップ1杯分の汗をかいていると言われているので、汗を吸収した布団をそのままにしておくと、熱を上手く逃がすことができなくなってしまいます。

湿気が布団から出ていかないと、熱がこもるだけでなく、カビやダニの発生の原因となったり、寝苦しく感じる原因となるので、通気性のいい寝具を選びましょう。そしてできれば、毎日通気性の良いところで干して、湿気を落としましょう。

平熱とは何度?

体温計の写真

自分の健康状態を管理するためには、適度に検温をして自身の平熱を把握しておくことが大切です。 日本人の平熱の平均は36.6℃〜37.2℃(36.89±0.34℃)と言われていますが、個人差があるので一概にはいえません。35℃を平熱とする方がいる一方で、37℃が平熱の方もいます。もともと平熱が低い方は、37℃程度でも発熱を疑ったほうが良いでしょう。

また、体温は年齢によっても変化します。子供のうちはやや高く、成長するにつれて落ち着いていきますが、高齢になるとさらに体温が低くなる傾向があります。検温をする際は、自身の年齢も考慮したうえで平熱かどうかを判断しましょう。

なお、高血圧症や更年期障害などを発症している場合は、発熱がないのに体にほてりを感じる可能性があります。ほてりの症状が心配な方は、一度医療機関に相談することをオススメします。

発熱は何度から?

“いつもより体温が少し高い=発熱”というわけではありません。平常時の体温である「平熱」には個人差があるように、体調不良ととれる発熱の体温もそれぞれ異なりますが、一般的には37.5℃以上を医学的な「発熱」とし、38℃以上を「高熱」としています。

ただし、年齢や疾患などの体調、運動後や厚着をしているなど、様々な要因によって体温上昇するので、体調を観察するとともに、時間を置いてから再度測ってみましょう。

体温と睡眠の関係

“寝起き=体温が高い”というわけではありませんが、睡眠と体温には深い関わりがあります。 そもそも、体温には2種類あります。1つは体の表面の温度である皮膚温度で、脇や口の中の温度を測ると分かる一般的な体温です。もう1つは、脳を含めた内臓など、体の内部の温度である深部体温で、生命維持のために皮膚温度より0.5℃~1℃程度高くなっています。

人が入眠する時は、皮膚内部の血流が増えることにより、顔や手足の体感温度である皮膚温(体の表面の体温)が上がり、やがて皮膚から放熱することで深部体温(体の中の体温)が下がります。つまり、手足からの放熱によって深部体温が下がり、皮膚温度との差が縮まることで、入眠モードに切り替わるということ。

また、体温を下げることで脳をリラックスモードに変えることができるので、深部体温を下げることが良質な睡眠にとって大切です。手足が冷えた状態では血管が収縮しているためうまく放熱できず、深部体温が下がらないので、寝つきが悪くなってしまいます。

眠りが浅いと感じている方は、睡眠時の体温を理想的な状態に保てるように工夫しましょう。

1:部屋の温度調整

寝室や日中過ごす部屋の温度に気をつけることで、理想の体温を保つことができます。

特に寝室の温度に気をつけることが大切で、夏は25〜27℃前後、冬は15〜18℃前後、湿度は通年50〜60%が理想と言われています。また、寝床内温度は30℃前後、湿度は50%前後が快適とされています。

暖房や寝具などで暖め過ぎてしまうと、体の熱を放散しにくくなるため深部体温が下がらず、寝つきが悪くなったり、眠りが浅くなるなど、睡眠の質が低下する可能性があります。ぐっすり眠るためには、寝室の温度を少し低めに調整することと、放熱しやすいパジャマや、熱がこもらない通気性の良い寝具を使用しましょう。

2:寝起き時の行動

人は体温の変化に沿って睡眠と覚醒のバランスが保たれています。睡眠中は深部体温が低下しているので、体温変化のリズムを崩さないためにも、朝起きたら適度に体を動かして、深部体温を上げることで、すっきりと目覚めることができます。

寝起きにダラダラしてしまうと体温変化のリズムが崩れ、夜に眠れなくなることもあるので気をつけましょう。

3:日光を浴びる

生活リズムが乱れている方は、起きたらまずカーテンを開け、太陽の光を15秒ほど浴びましょう。

朝起きてすぐ強い光を浴びると体内時計がリセットされるだけでなく、体温調整機能をコントロールしている自律神経の交感神経を活性化させることもできます。これは、曇りや雨天の日でも効果があります。

4:起床時に冷たいものを飲まない

起きてすぐ冷たい水を飲むと、内臓を一気に冷やしてしまうので体温が上がりにくくなります。睡眠時の発汗によって減った体の水分補給をすることは大切なので、体温より少し高く温めた白湯やコーヒー、紅茶を飲むようにしましょう。

5:朝食をしっかり食べる

朝食をとらない習慣は、体温が上がりにくいのでオススメできません。体温を上げるためにも、朝食をしっかりとってカロリー補給をしましょう。朝はお腹が空かないという方は、日光浴を兼ねて散歩や軽いウォーキングをすると、交感神経の働きが活発になるので食欲が出るかもしれません。

6:入浴をきちんとする

深部体温が下がると眠気が高まりますので、眠る2時間程度前に、38~40℃程度のぬるめのお湯で15分ほど入浴しましょう。

手足の血行が良くなると体の熱が放散しやすくなり、深部体温が下がるので寝つきが良くなります。また、副交感神経が優位になってリラックス効果が高まるので、ストレスで睡眠が浅くなっている方にもオススメです。

7:寝具を適切に使う

寝床内温度(布団の中の温度)は30℃前後、湿度は50%前後が快適とされています。寒いからといって寝室の温度を高め、さらに過度な保温性や保湿性、通気性のない寝具などを使用すると、睡眠時の体温が高くなって睡眠の質が低下する可能性があります。

通気性の良い寝具を使用することで、寝床内温度を適正に保つことができ、適切な体温調節をサポートしてくれるため、睡眠の質が高まります。寝つきが悪い方や、夜中に目が覚める方、布団の中が蒸れて寝苦しと感じる方は、掛け布団やマットレス、枕、パジャマなどの寝具を見直してみましょう。

また、寒い時期に電気毛布を使用している方は、タイマーをセットして睡眠中はオフになるように設定しましょう。加熱したまま眠ると体の熱を放散しにくくなり、深部体温も下がりづらくなってしまうため、睡眠の質が低下します。

しっかり体温を管理してより良い睡眠を

寝起きだから体温が高いというわけではないので、寝起きの体温が気になる方は、睡眠中の深部体温コントロールも含めた全体的な体温管理を意識してみましょう。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...