横向きで口を開けて寝ている男性

【医師監修】どうして寝言を言うの?原因や寝言をはっきり言う人の特徴

睡眠コラム

【医師監修】どうして寝言を言うの?原因や寝言をはっきり言う人の特徴

#夢 #快眠・安眠 #睡眠

一緒に寝ているパートナーから寝言がうるさいと指摘されたり、ときには自分の寝言で目が覚めたり……。

「寝言が多いことで身体に悪影響はないの?」と、不安を抱えている方に、この記事では寝言と睡眠の関係を詳しく解説しています。

寝言とは?

眠っている間に無意識に発する言葉のことを、一般的に「寝言」と呼び、「睡眠時随伴症(すいみんじずいはんしょう)」(パラソムニア)という睡眠時異常行動の一つです。といっても、寝言を発するからといって過度に病気や障害の心配をする必要はありません。一般的にみられる行動で、ストレスや不安、緊張が強まることで寝言を発する人もいるとされています。

NIH(アメリカ国立衛生研究所)の研究では、ノルウェーで無作為に選ばれた1000人の成人(18歳以上)のうち約67%の人が寝言を経験していた旨を発表しています。

参考:「Prevalence of different parasomnias in the general population(一般人口におけるさまざまな睡眠障害の有病率)」NIH(アメリカ国立衛生研究所)

寝言を言う原因

寝言を発する原因として、ストレス、夢、食生活、睡眠不足、病気などが関わっているとされています。

まず考えられるのは、仕事のプレッシャーや、布団が重くて寝心地が悪いなど、心身に強いストレスを感じているケースです。過去に受けた強いストレスによって、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っている場合には、悪夢の影響を受けて寝言を発する可能性もあります。また、悪夢に限らず、就寝中に見ている夢の影響を受けて寝言を発することもあります。

このような精神疾患との合併は、成人の慢性的な寝言の原因として多く見られる旨をNIH(アメリカ国立衛生研究所)が発表しています。

参考:「Sleeptalking in twins: epidemiology and psychiatric comorbidity(双子の睡眠時会話:疫学と精神疾患の併存)」NIH(アメリカ国立衛生研究所)

同研究では寝言と遺伝の相関関係の高さも報告されており、寝言は遺伝的影響に起因する場合もあると考えられています。

その他、アルコールやカフェインの摂取によって眠りが浅くなっている場合や、睡眠不足で脳が活動的になっている場合も寝言を発しやすくなります。

うめき声のような音を出す場合は、てんかんの発作や睡眠時無呼吸症候群などの病気を患っている可能性もあります。

もし、寝言を発しながら身体が痙攣する場合や、毎日うなされてる場合には、病気の可能性もあるので、不安に感じる方は医療機関に相談しましょう。

寝言を言う人の特徴

ベットで眠っているアジア系の女性

寝言を言う人の特徴として、ストレスを抱えている人、言いたいことを言えずに我慢している人、過度な疲労を感じている人、生活習慣が乱れている人、睡眠前にアルコールやカフェインを過度に摂取する習慣のある人などが挙げられます。

そのなかでも、心身に強いストレスを感じている人や生活習慣の乱れがある人は、一般的に寝言を発しやすいとされています。

また、怒ったような寝言を発する場合は、普段言いたいことを言えずに我慢していることやストレスが寝言として出ている可能性もありますが、本人の意思とは関係なく、見ている夢に関連した発言の可能性も考えられます。

寝言で叫んだりはっきりしゃべる人の特徴

睡眠には“ノンレム睡眠(脳も身体も熟睡している状態)”と、“レム睡眠(身体は休んでいるが、脳は起きている状態)”の2種類があります。

個人差はありますが、一般的に、入眠直後は、ノンレム睡眠の状態で、入眠から約90分後に、レム睡眠に変わります。そのあとは約90分ごとにノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返します。このような約90分の周期が、一晩に4~5回繰り返され、睡眠の前半3時間はノンレム睡眠が多く、明け方に近づくにつれ、レム睡眠が多くなっていきます。

夢を見る(夢を覚えている)のは、脳が起きている状態の“レム睡眠”のタイミングだと言われています。

レム睡眠時は、はっきりとした寝言を発しやすい

夢を見ているタイミングに寝言を発しやすいというわけではありませんが、レム睡眠時は、夢の内容と関連した寝言を言っている可能性があります。

レム睡眠時の寝言は、感情豊かな内容が多く、夢の内容に関するものが多いとされているため、奇想天外な寝言を発することもあります。

一方、脳も身体も熟睡している状態の、ノンレム睡眠時の寝言は、日常生活に関するものが多く、夢との関連はあまりみられないと言われています。

寝言には病気が隠れている?

先述のように、寝言は、心的外傷後ストレス障害(PTSD)や不安障害などの「精神疾患」や「てんかん発作」、「睡眠時無呼吸症候群」などの病気が原因の場合もあります。

毎日のように悪夢を見ていたり、助けを求める寝言やうめき声・奇声を発していたり、寝言と併せて異常行動がみられたりする場合には、病気が潜んでいる可能性が高いです。

精密検査が必要なケースもあるため、睡眠の専門医に相談することをおすすめします。

寝言を改善する方法5選

睡眠の質を高めることで、寝言が改善する場合があります。日常的に寝言を発している方は、ぜひ試してみてください。

しっかり眠れているか確認する

睡眠の質が悪く眠りが浅い状態が寝言につながっている可能性もあるので、一度、しっかりと眠れているかをチェックしましょう。

ストレスを減らす

夢の内容は日々の出来事や自分の経験に付随するため、日頃のストレスは夢に影響しやすいと考えられています。

ストレス発散方法やリラックスできるものを見つけたり、心配事や不安などを減らしてストレスの溜まりにくい環境づくりをしたりなど、日々のストレスを減らすことを意識してみましょう。

生活習慣を整える

睡眠前にアルコールやカフェインを過度に摂取したり、高温のお湯に浸かると睡眠の質が悪くなるので控えましょう。

また、運動不足の解消や、食生活や栄養バランスの改善なども良質な睡眠のためには欠かせません。さらに睡眠の質を高めるために、睡眠前にアロマを焚いたり、リラックスできる音楽を聴くことも効果的と言われています。

漢方薬を取り入れる

不眠への効果が認められている漢方薬や、下記の働きをもつ漢方薬を取り入れてみることもおすすめです。

  • 血流改善によって睡眠の質向上を図る
  • 自律神経を整え睡眠の質向上を図る
  • 鎮静作用によって入眠しやすくする
  • 消化・吸収機能の改善によって心身の健康状態を向上させる

漢方薬は根本からの体質改善が期待でき、医師によっては寝言対策として処方することもあります。

睡眠環境を整える

寝心地の良くない睡眠環境では、眠りが浅く、寝言の頻度が増えてしまいます。 特に、心身に感じている強いストレスの影響で寝言を発している場合は、自分に合った寝具や、適切な寝室の温度・湿度など、睡眠環境を整えることで寝言を改善できる可能性があります。

寝言で困ったら睡眠専門医に相談

寝言によって睡眠の質が低下し、集中力の低下や日中の強い眠気など日常生活に支障をきたすこともあります。その場合は、睡眠専門医の受診を検討しましょう。

医療機関を受診する際には、眠っているときの様子を記録しておくとよいでしょう。家族やパートナーに寝言の様子を教えてもらったり、アプリで寝言を録音したりする方法があります。

また、受診するかどうか判断がつかない方は、ネット上でのセルフチェックも可能ですので、ぜひ活用してみてください。

寝言は睡眠環境から改善してみよう!

寝言は睡眠時異常行動の一つではありますが、寝言を発するからといって過度に病気や障害を心配する必要はありません。なぜなら、生活習慣などを整えて睡眠の質を高めれば、寝言の対策は可能だからです。

特に、強いストレスの影響で寝言を発している場合は、寝室の温度・湿度や寝具など、睡眠環境を整えることが大切になってきます。寝言でお悩みの方は、この記事を参考に、いまの睡眠環境が自分に合っているか確かめてみてください。

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...