ビルドアート 代表取締役社長久米社長

睡眠によるリセットが”幸せコミュニティ”をカタチにしてきた

睡眠によるリセットが”幸せコミュニティ”をカタチにしてきた

#SLEEPHACK #特集

皆さまは「家づくり」と聞いて何を思い浮かべますか?

人生のほとんどの時間を過ごす「家」には、様々な人の”幸せ”を作れる無限の可能性があります。

SLEEP HACH 第5弾では、1年間で400棟(大工手間請け含む)の家づくりを通して、たくさんの方々の夢を叶えているビルドアート代表取締役、久米社長に睡眠と家づくり(幸せコミュニティ)における発想の関係性を伺いました。

■久米社長の経歴
久米 理士(Tadashi Kume)
(株)ビルドアート 代表取締役社長
生年月日:1976 年 4月 5日
神奈川県相模原市

職歴

年月 職歴
1995年 4月 涌井工務店 弟子入り
2001年 3月 理建築設立(代表取締役に就任)
2003年 12月 (有)ビルドアートに改名
2008年 6月 二級建築士事務所登録(神奈川県知事登録第10201号)
2008年 7月 一般建築業許可取得(神奈川県知事許可 般-20 第73465号)
2011年 12月 株式会社ダンデ・ライズ設立(不動産会社)
2012年 7月 株式会社ビルドアートに商号変更
2014年 12月 一級建築士事務所登録(神奈川県知事登録第16775号)
2016年 2月 特定建設業許可取得(神奈川県知事許可 特-27 第73465号)
2016年 5月 宅地建物取引業者登録(神奈川県知事 1 第29492号)
2017年 6月 神奈川県相模原市南区相模大野へ本社移転

【SLEEP HACKポイント】

――睡眠と発想の関係

アインシュタインのように睡眠や仮眠でインスピレーションを受ける「発想」という考えもあるんですけど、僕は逆にリセットなんです。
翌日に持ち越さない。人生はいろいろありますよね、楽しい事もあれば悩む事もあるじゃないですか。それを毎日睡眠でリセットしていきます。 リセットするとまた0から考えられるので、発想が柔軟になります。

SLEEP HACKポイント

ーニングポイント:お客様の人生に寄り添う

棟梁に弟子入り!修行時代に灯る熱い想い

――起業のきっかけを教えてください。

私は高校を卒業して大工さんになりました。大工と言っても学校があるわけもなく、棟梁と呼ばれる親方の所に弟子入りしたのですが、それが高校を卒業した18歳の時です。建築のけの字も知らなかったのですが、修行させてもらいました。

――そもそも建築には興味があったのですか?

実は全く無かったです。でも何か物を作ることは好きでした。当時建築現場には重機などは無く殆ど手で組み上げていたので、上棟した時に「これを全部手で上げたんだな」という物理的な重さに感動しましたね。

――修行時代から起業に至るターニングポイントはありましたか?

年間を通して仕事量がない時はハウスメーカーさんの仕事を”手間受け”という形でやらせてもらっていたんです。

その中でハウスメーカーさんのルールに則って大工として現場に出るんですけど、お客さんから頂く「ここに下地を入れて欲しい」「ここにニッチをつけて欲しい」などの要望に勝手な判断が出来ない寂しさがありました。

そうするとお客さんが肩を落として帰ってしまうんですよ。僕は別にお金はいらないんだけど「現場には材料あるから下地ぐらい付けれるのにな」って。

「子供の防止掛けをつけたい」とお客さんは生活感をイメージして喋るんですけど、それに対応出来ない時代でしたね。そこでもし自分が直接お客さんとお話できるのであれば、もう少し別の形で喜んで頂けるのかなと思いました。

起業のきっかけ

創業時に経験した人生を変える出会い

――創業当時の苦労はありましたか?

25歳ぐらいから社長をやっているんですけど、苦労したという感覚が無いんですよ。苦労より楽しいんです。でも実際には苦労しているんですけど。逆に僕についてきてくれる方に苦労かけさせてるかな(笑)

技術は自信ありました。現場でひたすら作って、自分の納得いく仕上がりにしていく大工仕事には自信があったんですけど、注文住宅を任せてくれる方がいるかっていうと、なかなかいないんです。そこにはデザインだったりコーディネートだったりいろんな人が携わって家は建っているので。

私が28歳の時にある方から、「競合がいるけど、私の注文住宅を建ててみない?」と声をかけていただいた事がありまして、西東京市にビルドアート、ゼネコンさん、工務店さん、ハウスメーカー2社の5社が集まり、お客さんからどの会社が選ばれるかというのを体験しました。

その時は今まで注文住宅の話は1件も無かったのですごく嬉しかったです。そして当時私を慕ってくれていた数多くの大工さん達みんなに「今日プレゼン行ってくるよ!」と言いながら会場に向かいました(笑)

私たちの熱意が伝わったようで、最終的に5社中2社まで残りました。当時一級建築事務所などが無かったので、全てにおいて外の仲間から力を借りてプレゼンしたんです。

ハウスメーカーさんは2人ぐらいで来てたんですけど、僕らは9人で向かいました。太陽光の専門家、電気屋さん、ガス屋さんなどを集めて、なんとかお客さんに正確な情報を伝えたかったんです。

プレゼン後はすごく手応えがありました。しかし、選ばれませんでした。IT企業の社長として最前線を走っているお客さんの理由としては「私にワクワク感がなかった」というものでした。

ですがその方は「これからまた2棟3棟と家を建てるから、その時は久米さん。あなた受注できるぐらい実力をつけて私の前に来てね」と言ってくれたんです。

嬉しい半面、悔しい半面ですごく複雑な気持ちになりました。建物は正確なだけじゃなくてお客さんの求める生活の中のワクワクドキドキがないと選んでもらえないなと28歳で目の当たりにしましたね。

お客さんの人生スタイルを想像できた上で私たちがどう形にしていくかを、お客さんに教えてもらいました。それが私のターニングポイントでしたね。

ターニングポイント

幸せのコミュニティづくり事業

ビルドアートに関わる人々の笑顔の輪

――どのような方がビルドアートに集まってきますか?

大体年間110件から120件の注文住宅をご契約いただいているんですけど、中には弊社の建築現場に携わってくれている業者さんもお客さんになっています。
相模原市の分譲地にビルドアートで一区画、注文住宅を建てさせて頂いたことがあるんですけど、その時はお客さんの声ではなく街の配送業者の方などに「あそこの分譲地に住宅を建てたのはビルドアートさんですよね。

なんだか豪華になった気がするんだけどなんで?」と言ったような声を頂きまして、自分で言うのもおこがましいんですけど、”街の雰囲気を家一軒で変えられる”とさらに確信に繋がりました。

他にはあるお客さんの事例では、内気だった幼稚園に通っているお子さんがビルドアートで建てた家に住み始めると、友達を1人遊びに連れてきて、その翌週には2人になり、その翌週にはまた人数が増え、最終的にはママ友が遊びにきたりといった事がありました。

私も子供が3人いて、人が集まる所で楽しく遊んでいますと、いじめっ子もいじめられっ子もいないんですよね。
ママ友同士も仲良くなって何十年も仲の良い友達になれるんですよね。

「マイホームがそういうコミュニティの場所になれる」という声を聞くと嬉しいです。

どのような方がビルドアートに集まってくるか

グランピングから野菜、そして子供まで。そこに共通するのは”笑顔ある空間提供”

――グランピング・リゾート事業を展開されたキッカケは?

30年後の2050年には着工頭数が90万個から50万個まで減るということが国土交通省から発表されているんですけど、僕がベトナムのハノイに商談に行っていた時に見た国土交通省のパンフレットにも「日本の国内における建築の先細りは確実である。

日本の建築技術は世界に向けて発信し、喜んでいただく道を模索したほうが良い」という記事が書いてありました。

やはり私も日本の建築は世界的に見ても優れていると思いますので、海外に輸出してもいいなと思いました。ただ日本の材木を使うなら、国内で日本の建築を進めていきたいと思ったんです。

その中で住宅事情が半分近くになった時に、どうやってビルドアートが次の世代に不安なく、夢を持った状態でバトンタッチできるかと考えた時に、住宅に拘らなくていいなと思ったんです。
前提は「住まれる方」「来場される方」「働く方」全てにおいて笑顔がなければいけないと思っています。

そういった中、千葉県一宮でグランピング施設を展開することを決定しました。
交通の便はあまり良いとは言えませんが、そこで木造の温かみのあるグランピング施設を作ろうというテーマを挙げて実際に建築しました。

私達は多額の広告費を出した訳ではありません。その中でお客様一人一人に真心を込め、楽しさを分かって頂けるようなおもてなしをして1年でこの事業が黒字化に成功しています。そして地元の時事会長さん、一宮町役場、地元の関連企業さんなど地域のいろんな方に支えられてやらせてもらっています。

グランピング・リゾート事業を展開されたキッカケ

――ワールドファーム(人工光型野菜工場)事業を展開されたキッカケは?

2016年の9月に何気なくニュースを見ていると、北海道に台風が3回上陸し、ジャガイモ畑に直撃し出荷できなくなったという内容で、テレビ局の方が農家の方に「いつになったら出荷できるんですか?」と聞くと、「7.8年かかる」と言っていました。私たちは台風や地震に強い建物を作っているので、建築屋として何かできることはないかと考えた時に、建物の中で野菜を栽培できる「人工光型野菜工場」というものにたどり着きました。

これで出来る事というのはフードロスにも貢献でき、地元の山で取れた材木を活用して工場を作り、地域の雇用口も広がり、お金をもらいながら家庭菜園ができ、農薬を一滴も使わず菌数管理をする事で子供にも自信を持って食べさせられるんです。

働いている主婦の方やおじいちゃんおばあちゃんなども働ける環境になっているのですが、働いて1ヶ月程で皆さん笑顔になります。それは野菜を持って帰って家庭で笑顔になるからだと思います。

私たち中小企業が海外の方も笑顔になる食べ物、空間を提供してリラックスして頂いて笑顔になれる空間を提供してオリンピックで100<%発揮していただきたいという想いがあります。

WORLD FARM

――自然素材を積極的に使った家を

子供の可能性は無限だと思うんですよ。自分の子供もしつけはするんですけど押し付けはしないんです。

その中でワクワクドキドキ楽しいことを考える時にアレルギーなどを減らしていきたいなと思います。
例えば家に帰ってきたら花粉などを落とせる空除湿、直接暖房が当たらない設備、そういうもので子供の未知数な可能性を引き伸ばしてあげたい。

子供を伸ばしてあげるんじゃなくて、子供自信がのびのび生活できる空間を与えてあげる。どっちかというと見守るに近いかもしれないですね。そういう環境というは人が集まりやすくなりますよね。この環境によっていじめなどの問題もなくなるのではないでしょうか。

久米社長の睡眠事情

良質な睡眠の追及

――現在の睡眠状況と事業創造のつながりを教えてください。

1日24時間の中で8時間睡眠される方もいれば6時間の方もいると思うんですけど、単純に考えて人生の4分の1、ないし3分の1を睡眠というものに時間を使っている訳ですよね。

その睡眠がもたらす効果というのは、翌日の仕事の活力、アイディア、人間関係、全てにおいて関係してくると思うんです。人生100年として25年のその時間をどうやって有意義に使うかに関しては、日本の国民の皆様もそうですし、睡眠に関する事業は本当に人を幸せにすると思っています。

今回の事業創造に関しても小手先ではなくて、本物を作りあげられるメンバーが揃い、アイデアを元に形にしていくという壮大なプロジェクトだと思います。

現在の睡眠状況と事業創造のつながり

発想より”リセット”という柔軟性

――久米社長の睡眠時間はどれくらいですか?

私は6〜7時間寝ないとどうしても次の日の仕事に支障をきたしてしまいます。やはり良質な睡眠方法などは自分なりに模索しているんですけど、睡眠不足などに対して次の日の発想力は自分のイメージ通りにいってないなと。情報処理能力も劣りますよね。それは今まで生きてきた中で分かってしまいます。

――普段、日中に仮眠はされますか?

ほとんどしないですね。よっぽど午後に支障をきたすなというときは20分程目を瞑ったり、仮眠は取るようにしています。そうするとやはり午後は自分のイメージに近い状態まで持っていけます。

――寝付けない時はどのようにして過ごしていますか?

そういう時には眠らないことの焦りよりも、目を瞑ってればいいという事で、基本的には意図的にリラックスさせていればいつの間にか眠れますね。

――現在睡眠に関して気になっていることはありますか?

枕にしてもベッドにしても、いろんなメーカーさんがアイディアを出して商品にして、出回っていると思うんですけど、人工光型野菜工場を作る時にも名だたる日本の会社さんが集まってできたんです。建屋は日本のゼネコンさん、空調は日本の空調メーカーさんといったように日本の屋台骨を支えているような日本の大手さんで作ったんですけど、野菜が育たなかったんです。

それでオーナーさんが「野菜が育たなかったので皆さんの知恵を借りたいから、一回皆さん集まってください」と。すると皆さんは膨大な資料を持ち寄り「原因はうちではない」という大会が始まってしまうんです。その会社さんは最終的には倒産しました。

何が言いたいかというと、決して各社さんが悪い訳ではないという事です。例えばベッドにしても枕にしても、トータルコーディネートしてないからそういう事になったんです。今回「良質な睡眠をとる」という目標を掲げているのは非常にいいと思います。今回はブレインスリープのような睡眠をコーディネートする方がいらっしゃるので、今回の事業、私は自信があります。

私どもが今やろうとしている「良質な睡眠がとれる住宅」、これに関しても物売りになった瞬間にダメになると思います。そこにいるのは朝起きた時に清々しく起きられるご家族、そこにお住まいの方、その笑顔があって初めてゴールだと思います。そこを一緒に目指していきたいと思います。

――睡眠のこだわりはありますか?

疲れている時ほど周りの音が気になりますね。逆に疲れていない時はどんな音が鳴っていても寝れちゃいますね。やはり音や湿度などにこだわりたいです。乾燥していると体質的に次の朝喉が痛かったり肌が荒れていたりしますね。

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...