ディグラム・ラボ株式会社代表取締役木原 誠太郎さん

[心理学×統計学] 診断実績3,000万回以上の自己分析ツール開発者だけが知るアイデアの閃き方とは!?

[心理学×統計学] 診断実績3,000万回以上の自己分析ツール開発者だけが知るアイデアの閃き方とは!?

#SLEEPHACK #特集

皆さんは 「ディグラム診断」 をご存知ですか?ディグラム診断とは「心理学」と「統計学」が融合して生まれた最新の性格診断ツールです。

ベースとなるのは、性格分析のための心理テスト「エゴグラム」。 第3弾では、そんなディグラム診断のメカニズムを編み出したディグラム・ラボ代表取締役、木原社長に、睡眠とクリエイティビティ溢れる発想力についてお聞きしました!

・発想力の源… ・ディグラム診断誕生秘話… ・メディアでの活動… ・睡眠とひらめき…

今回はこういったアイデアマンならではの貴重なお話を皆さんにお届けします。 読んでいるうちに皆さんにも素晴らしいアイデアが降りてくるかもしれません。

■経歴

ディグラム・ラボ株式会社

代表取締役 木原 誠太郎

2001年、株式会社電通リサーチに入社し、リサーチプランナーとして多くのプロジェクトに参加。その後、Newhands、ミクシィ、電通を経て、2013年にディグラム・ラボ株式会社を設立。現在は統計学と心理学を掛け合わせた性格分析ツール「ディグラム」の研究およびビジネス展開を行っている。「はたらく女性のモヤモヤ診断」開発者。

【SLEEP HACKポイント】 ディグラム診断の誕生秘話 ー事業アイデアの閃きは睡眠時?ー

ディグラム診断の誕生秘話

木原 誠太郎さん(以下 木原社長):仕事のことは24時間常に考えているのですが、日中活動している時にインプットとアウトプットを集中的に行い、寝ている時に【思考を整理する】というイメージでいつも寝ています。

眠っている時はぐしゃぐしゃになったキャッシュを頭の中で整理している感覚なので、寝ている時の方が良いアイデアが浮かびやすいです。

実はディグラム診断という事業を思いついたのも”眠っている時”なのですが、当時思いついた瞬間に奥さんを起こしてそのアイデアを記録してもらいました(笑)

「良いアイデア思いついた!エゴグラムというものがあって、それに統計をかけるといいよね!」というふうに言っていたと思います(笑) こちらをキッカケにディグラム診断の骨格が生まれました。

『心理学×統計学を使った新たな性格診断!』

統計の専門家から性格診断の道へ

ディグラム診断を作ろうと思ったきっかけ

木原社長:元々僕はマーケティングリサーチの専門家であり、調査データの専門家です。

例えば、睡眠の話であれば、「不眠の人ってどんな人なのだろうか」とか、「○○に困っている人はどんな行動をするのだろう」とか、そういうものを性格分析だけじゃなくて、インサイトと呼ばれる”本音”であったり、このブランドを知っているのかと認知率を計ったりなど、統計リサーチの専門家として約20年間活動しています。

―ものを測る人は本質的なものを見るー

木原社長:ディグラム診断を立ち上げたキッカケとしては、2010年ぐらいに僕は当時SNSの最大手であったmixiに勤めていました。

その時に人が一番気にすることや、ソーシャルシェアするものとかは何かなと考えていて、その時一番盛り上がっていたのが『診断コンテンツ』でした。

診断コンテンツは色々なものを作ったのですが、仲間と「本当に当たる心理テストはなんだろう」となり、確固たるものが見つかりませんでした。 僕の性格的に一つ決めたらやり遂げるので、その時から心理テストの勉強を始めました(笑)

つまり、統計の専門家が心理テストの勉強を本気で始めたということです。元統計の専門家で、診断テストを作っているような人はあまりいませんでした。やっている人はいたかもしれないですけど、企業として行っている人はあまりいませんでした。

事業構築やサービス展開の中で、「エゴグラム」というものが一番当たると気づいたのです。その中で疑問に思ったことが「日本人の性格って、どのタイプの人が何%いるのだろう」という事でした。

しかし、調べてもそれについての情報はありませんでした。 それで自分で調べようと思い立ったのがディグラム診断を作ろうと思ったきっかけです。

ディグラム診断の画面

「心理学×統計」の2つを掛け合わせて日本人の性格を明らかにする!というものがディグラム診断の立ち位置です。この分布を作り出したのは僕たちが初めてだと思います。

例えば「N型2」というのは女性っぽい性格で、やさしさがあって人の事を気にしてストレスが溜まっているタイプです。そういう人は何%くらい居て、向いている仕事は何かという事がすごく気になり、その時に思いついたものが「ディグラム診断」でした。

2013年に法人化してから現在まで、我々は何の意義を持ってやっているのかというと…。 ある時、飲み会や部下とのやりとりの中で、僕も含めてですけど「意外とみんな自分の事(性格)を分かっていないな」と思いました。

その時に「ディグラム診断のようなツールを作ったらビジネス的にも社会的にもすごく意義があるのではないか」と思ったのです。 そして、僕たちが掲げたのが「性格のミエル化」です。

おそらくこれからの時代は、自分の性格を分かっていないと仕事でも生き残れないし、結婚や恋愛においても重要になってくると思います。なので、そういった面で自己分析やセルフカウンセリングが必要になってきて、それらをやっている当人はとても面白いと感じるはずです。

人の性格を診断することによって社会のためにもなります。「自分はこのためにデータの分析をしている」と思うようになったことが原動力になっています。

ディグラム診断の診断結果

ディグラム・ラボの自社ホームページから20の質問を経て受けられるディグラム診断

「ディグラム診断×○○」で無限の可能性

木原社長:企業はライフステージに合わせて動いているのですが、僕らもそういう意味で言うと、データの専門家としてこれからの皆さんと寄り添えることは、その人たちがいつでも自分を振り返ることもできて、前を向けることもできる人生マップであり、人間ドッグのようなものだと思います。

僕たちの性格診断は”無限通り”作れるので、睡眠に関しても作れます。不眠に悩む人はどんな性格なのかも性格診断でわかるので、その人たちがどういう行動をとれば良いかということも分かります。

しかし、僕たちは医者ではないので100%不眠を治すことはできませんが、確率で割り出すと「こういう人は危ない」といったように診断することはできます。 睡眠はストレスやメンタリティの部分が深く関わってくるので、そこを除去するだけでよく眠れると思います。

性格診断は特効薬ではないですけど、『心のサプリメント』としてさらに作っていきたいです。その他にも、トヨタさんと車の販促で取り組みをしたり、アンファーさんと頭髪診断したり、JTさんとはタバコのマナーについてもやりましたし、「ディグラム診断」はどんな分野のものでも掛け合わせることができます。

唯一出来ないものは”嘘をつく”という事です。統計の専門家なのでデータでダメなものはダメと出るので、ユーザーにとってはバリューがある事だと思います。 大体僕たちのところに来る方は困っている人が多いです。

我々のビジネスは、BtoBとBtoC の2軸があります。BtoBの場合はクライアントさんの「物が売れない」という悩みに対して診断コンテンツを作ります。BtoCの場合には人生で悩んでいる方、占いに行くような方が利用しています。

メディアによる認知革命

ディグラム診断発展の道のり

メディアによる認知革命

木原社長:なぜかというとサービスを作った瞬間にタレントとしてテレビに出演して、事業がロケットスタートしたからです。

悩んだことは、「タレントとしての自分」と「社長としての自分」の人格についてです。(今もジレンマがあります) なので、テレビに出演した時にサーバーが何個も落ちるといった事が起きたので、サービスの認知に関する苦労はほぼありませんでした。

ただ、ロジックの開発についてはかなり苦労しました。診断ロジックが現在までにバージョン4まで変わっています。今の最新バージョンはかなり精度が高いのですが、ロジック1の時は診断してもあまりピンと来ない感じで、そのもどかしさは感じていました。

チューニングの日々の繰り返しでした。 あと認知はすごく拡がったのですが、「ディグラム」という言葉の意味を理解してもらうことにも苦労しました。

ディグラムという言葉は、”ディプスインサイトグラム”という深層心理をグラム単位で測るという意味で、僕の造語なのですが、商標は会社じゃなくて個人で持っています。

なので、そういう意味では0からのスタートという苦労は非常にありました。 ディグラム診断を始めた頃は、他の統計の専門家から「ついに占いをはじめたのか」といったような事を言われたり、はずれ者のような感じもあり、テレビ側からしても異端児に見えるのでどのジャンルに当てはめればいいか分からないといった感じでした。

でもこれらは苦労点ではありますけど、0スタートする人なら誰もが悩むような当たり前のことでもあると思います。 ディグラムの話で言うと、心理テストの源流は”エゴグラム”というところにあります。

エゴグラムというのはエゴ(自我)をグラム単位で測るという事なのですが、我々はエゴでは無く、ディプスインサイト(深層心理)。つまり、自分でも気づいていない自分をグラム単位で測るというのを考え始めました。

ディグラム診断の質問画面

ディグラム診断による20の質問のうちのひとつ。

ディグラム診断をどこに普及していきたいかというと基本全方位ですけど、最初にベンチマークしたのは「占い好きな人」です。

つまり、自分のことで悩んでいる方です。普段のネタでもいいので吐き出させるようなものを作らないと、昔よりもSNSなどが発達している今の方が息苦しくなるだろうなと考えました。

そこでセルフプロデュースがすごく大事になってきます。 ちなみに、僕はオフモードの時によく相談をうけるのですが、その時に曖昧な答えではなく適切に返したいと考えました。

その時、今まで大手企業に向けてやってきたマーケティングを個人に向けてやったら良いじゃん!と閃き、悩み相談ツールとして発展させていきました。 ディグラム診断ツールを知っていることによって、人によっては食事の場所を相手に合わせて選ぶ事ができたりします。

これがあるだけで自分の人生がより豊かになるので、知っているか知っていないかの情報格差が明確になってきます。

「診断コンテンツ」から「相談コンテンツ」への転身

「診断コンテンツ」から「相談コンテンツ」への転身

木原社長:診断は結果的には問診票みたいなものなのですが、最近ディグラムに寄せられる一般の方の悩みは”診断した後にどうすればいいか”という事です。

企業でもそうですが、診断した後の解決方法を出せるところが無いのです。例えば睡眠の話で言えば、「あなたは眠れないですね」と診断しても「じゃあどうすればいい?」というふうになってしまうので、「ストレスを溜めないように○○しましょう」といった様な解決方法を提案できると、その人の人生は前向きに動いていきますよね。

そういう意味では、診断ではなく”相談できるもの”として道しるべを作ったり、その人の肩を押していきたいと思っています。

データ研究だけでなく、データの情報発信アンカーとしてメディア出演していく

木原社長:統計の専門家は分析能力には優れているのですが、コミュケーションやトークについては苦手な方が多いように思います。

僕は「喋り」を多く使う事ができるので、こういった部分を伸ばしていきたいです。さらに具体的に言えばディグラム診断はメディアに乗って伸びてきたものなので、これからは劇的に変わっていく世の中でしっかり調査データをダイレクトに伝えていく存在になりたいです。

さらには情報番組のコメンテーターなどでもデータ発信をしていきたいと考えており、事業をやりながらその分野も今後は展開していこうと考えています。

ディグラム診断で人の三大悩みをミエル化!

人の三大悩みをミエル化

木原社長:人の三大悩みが分かってきました。まずは「自分の性格」「仕事」「恋愛・結婚」です。

自分の性格を分析することは我々がやっているので、テーマごとにプライオリティをつけるとしたら「仕事」と「恋愛・結婚」です。

結婚した後に相性が合わないことが発覚するミスマッチのケースや、仕事であれば就職した後に「どうしてこの企業に入ってしまったんだろう」と思ったり、そういった事を見える化して減らしていく事ができると思っています。

またディグラム診断は、きちんと科学としての線引きやストーリを客観的に作って行っています。

例えば、睡眠で悩んでいる人がいるとすれば、「睡眠で悩んでいる人がやるべきツールを作る」といった様に、「40歳の方の不眠の悩み」「失恋した時の不眠の悩み」という区別をすると課題解決に繋がります。

ディグラム診断を継続していると、自分の性格の変化に気づけます。75.5%の人が1年以内に性格が変わります。性格が変わる分岐点は、ライフステージの変化や気分が変わる時ですが、とくに「異性にフラれる」とめちゃくちゃ性格に変化が出ます。(自信喪失状態になるので…)

では、その状態をもとに戻すにはどうしたらいいか?それはもう「心を無にするしかない」ですよ。

あとは、時間をかける!。時間が解決するというのはあながち嘘ではないですね。時間や環境で変化が頻繁に起きますので、性格は血圧と似ていますね。(※あくまでイメージ)

2016年 木原社長が出版した「1400万人の新ディグラム性格診断」

2016年 木原社長が出版した「1400万人の新ディグラム性格診断」

ディグラム診断士の養成(ディグラム診断士協会を準備中)

木原社長:家元が僕みたいになってしまっているので、もっと各分野でのディグラム診断士を増やしたいと思っています。

実際にディグラムの講座を開催しているのですが、それを通じて「ディグラムの仲間」を作ることってかなり大事だなと実感しました。 なので、今後もっと精力的にディグラム診断士の普及活動をしていきたいと思っております。

ディグラム診断のメソッドを活用すればさらに可能性が広がるものなので、ぜひディグラム診断の講座にもご参加頂き、興味のある方にさらに広げていきたいです。

木原さんの睡眠事情

自分の睡眠タイプを知ること

木原さんの睡眠事情

―無理に寝ようとしないー

木原社長:僕はCPAPを着けて寝ているのですが、いつも睡眠時間を測っていて、大体6時間半ぐらいです。

30代後半になってから徹夜などは無くなりましたけど、忙しい時でも最低3〜4時間は寝ています。昼間に少し仮眠をとる時もありますが、オンタイムではあまり無いかもしれません。

土日に仮眠を入れる時は、二人の子どもがいるので合間を縫って強制的に仮眠する時もあります。 40歳を過ぎてくると睡眠のアラートは勝手に体からくると思っていて、性格分析をやっているからなのかもしれませんが、自分のメンタルのアラートはすぐに分かります。

睡眠が浅くなり、夜に寝ていても3時や4時頃に目が覚めてしまう事があるのですが、その時は無理に寝ようとせずに起きていることにしています。

―寝具もメンタルもチューニングー

木原社長:枕や布団などは自分に合うようにチューニングします。あとはできる限り興奮している状況にならない様に、しっかり湯船には浸かって眠るようにしています。

睡眠に対しての質はあまり気にしてはいないのですが、イライラした時や追い込まれている時の寝方については気になるものがあります。

最後に

キャンペーンの告知

ELPIS-メンタルチェック

ディグラム・ラボでは、株式会社メンタルヘルステクノロジーズと共同で、メンタルヘルス特化型の性格判断「ELPIS-メンタルチェック」を2019年にリリースいたしました。

メンタルバランスは常に環境や心境により変化します。メンタルチェックは自身のセルフチェックを行い、定点観測をする事により、従業員の置かれている精神分析をほぼ適格に診断する事によりケアを行う事ができます。

只今、キャンペーンにて1週間でもアカウント発行を行っておりますのでご気軽にお問い合わせ下さい!

問い合わせ先:t.suzuki@digram.co.jp(担当:鈴木)
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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

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夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...