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枕だけで睡眠の質は変わるの?レム睡眠とノンレム睡眠との関連性も解説

睡眠コラム

枕だけで睡眠の質は変わるの?レム睡眠とノンレム睡眠との関連性も解説

#快眠・安眠 #枕

人それぞれ適切な睡眠時間は異なりますが、一般的に7時間程度は必要と言われています。ですが、忙しい現代人が毎日長い睡眠時間を確保するのは難しいため、最近では“睡眠時間”だけでなく、“睡眠の質の改善”に注目が集まり、枕をはじめとする寝具を見直そうという方も多くいらっしゃいます。

しかし、寝具を見直すことが睡眠の質の改善につながるとされているものの、寝具と睡眠の質の関係性にフォーカスした科学的なデータはあまり多く存在していません。 そこで、ブレインスリープでは枕と睡眠の関連性を検証しました。

睡眠の質とはなにか

睡眠の質とは、健康的な生活という観点から睡眠を評価する様々な指標のことです。指標には「睡眠量(時間)」「安定性(中途覚醒が少ない)」「入眠までの時間の適切さ」「満足度」などの項目があり、満たしている項目が多いほど睡眠の質が高い状態(良質な睡眠)に近いといえます。

レム睡眠とノンレム睡眠とは?

睡眠の質を理解するうえで欠かせないものが「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」です。本章ではレム睡眠とノンレム睡眠を解説します。

レム睡眠とは

レム睡眠とは睡眠段階の一つで、身体は休んでいるものの、脳は起きている状態を指します。独特な名前は、レム睡眠中に起こる急速眼球運動(rapid eye movement)の頭文字に由来しています。

通常、レム睡眠とノンレム睡眠は90~120分周期で交互に出現し、夜の睡眠においては後述するノンレム睡眠よりあとに来るのが一般的です。朝方になるにつれてレム睡眠の時間は増え、一晩では全体の約20%を占めると言われています。また、よく夢を見るのもレム睡眠が持つ特徴の一つです。

ノンレム睡眠とは

ノンレム睡眠も睡眠段階の一つで、脳も身体も熟睡している状態を指します。レム睡眠ではない(non-REM)という意味に由来する名前です。就寝直後に出現する睡眠段階であり、朝が近づくにつれて持続時間が短くなっていきます。レム睡眠と違って夢を見ることはあまりありません。

ノンレム睡眠は、睡眠の深さによって、睡眠が最も浅いステージ1から、睡眠が最も深いステージ4まで、4段階に分けられます。ステージ3・4では高振幅徐波が出現し、睡眠が深くなって意識水準が低下します。この2つの段階は徐波睡眠と呼ばれています。

ノンレム睡眠とレム睡眠の関係

前述の通り、ノンレム睡眠とレム睡眠は、一晩で交互に出現し、まずノンレム睡眠が始まって、その後レム睡眠に移行するのが一般的です。このサイクルは、個人差はあるものの通常90~120分周期でおこなわれ、それを一晩で4~5回繰り返しています。 このなかで、最も深く眠っている状態が1周期目の「ノンレム睡眠」です。

睡眠の質を決める”黄金の90分”とは?

黄金の90分を示したグラフ

ブレインスリープでは、最も深く眠っている状態である1周期目「ノンレム睡眠」の最初の90分を「黄金の90分」と呼んでいます。「眠り始めの90分の質が悪いと、その後何時間寝ても睡眠の質が悪い」とまで言われているほど、入眠後の90分は重要です。

その理由は、眠り始めにしっかり深く眠ることが、その後の睡眠リズム全体に関わると考えられているからです。

“黄金の90分”がもたらすメリット

黄金の90分は、心身をしっかり休め、日々のコンディションを整えるうえで大切な時間だと考えられています。

また、成長ホルモン(グロースホルモン)は深い眠りのあいだに多く分泌されると言われており、眠り始めにしっかり深く眠ることは、その後の睡眠リズムを整えることにもつながると考えられています。


枕を変えるだけで睡眠の質は変わるの?“枕と睡眠の関連性”を検証!

今回、ブレインスリープは、ブレインスリープのメインプロダクトである、「ブレインスリープ ピロー」と、機能性枕領域において日本国内で多く使用されている一般的な機能性枕を比較対象に、枕の素材の違いがどのように睡眠の質へ影響するか検証を実施しました。

検証結果1:最も深い睡眠である“黄金の90分”の割合が増加した

今回の検証では、脳波計を用いて睡眠中の睡眠ステージの判定をおこないました。

黄金の90分における深い眠りの割合を、ウレタン枕とブレインスリープ ピローで比較したグラフ

その結果、睡眠の質を左右する第1周期(黄金の90分)における深い眠り(ノンレム睡眠のステージ3)の割合は、ウレタン素材の枕の30.5%に対し、ブレインスリープ ピローでは38.1%という結果でした。

※深い眠りとは、ノンレム睡眠におけるもっとも深い睡眠ステージであるステージ3を指します。n=18、mean+SE、* p<0.05、paired t-test。効果には個人差があります。

検証結果2:入眠時の深部体温がスムーズに低下した

スムーズな入眠には、就寝後に深部体温(からだの内部の温度)が下がることが関わるとされています。そこで、枕の違いによる就寝後の深部体温の変化を比較しました。

就寝後の経過時間ごとの深部体温の変化を、一般的な機能性枕とブレインスリープ ピローで比較したグラフ

その結果、就寝後の深部体温は、一般的な機能性枕に比べて、ブレインスリープ ピローのほうがより低く推移する結果となりました。

頭部の熱を逃がす設計により、入眠時の深部体温がスムーズに下がりやすい傾向がみられました。

※就寝時の深部体温を基準とした変化量を記載しています。※入眠時に深部体温が下がることが、スムーズな眠りに関わるとされています。n=8、mean-SE、paired t-test、* p<0.05。効果には個人差があります。

検証結果3:寝つき・目覚め・睡眠維持に関する指標が良好だった

ブレインスリープ ピロー独自の「9グラデーション構造」の有無によって、睡眠の質に関する指標がどう変化するかを比較しました。

9グラデーション構造の有無による、睡眠潜時・中途覚醒・離床潜時・睡眠効率の比較グラフ

その結果、グラデーション構造が「ある」場合に、以下のような結果となりました。

  • 睡眠潜時(就床から入眠までの時間):あり 6.5分/なし 12.1分
  • 中途覚醒時間:あり 20.5分/なし 36.6分
  • 中途覚醒回数:あり 1.8回/なし 3.0回
  • 離床潜時(最終覚醒から起床までの時間):あり 3.7分/なし 5.5分
  • 睡眠効率(ベッドにいた時間のうち実際に眠っていた割合):あり 90.9%/なし 84.8%

今回の試験では、9グラデーション構造がある場合に、寝つき・目覚め・睡眠維持・睡眠効率に関する指標が良好な結果となりました。

※n=20、グラデーション構造あり・なしの比較。paired t-test、** p<0.01。効果には個人差があります。

検証結果4:起床時・入眠維持・翌朝のすっきり感で主観的な評価が良好だった

OSA睡眠調査票の因子ごとに、一般的な機能性枕とブレインスリープ ピローの得点を比較したグラフ

起床時の自身の睡眠を評価する心理尺度であるOSA睡眠調査票を用いて、睡眠に関する主観的評価を、一般的な機能性枕と比較しました。

その結果、以下の3つの因子群において、ブレインスリープ ピローの得点が良好な結果となりました。

  • 起床時眠気(起床時の意識のはっきりさ)
  • 入眠と睡眠維持(寝つきの良さ・安定した眠り)
  • 翌朝のすっきり感(起床後のリフレッシュ感)

今回の検証から、枕を見直すことが睡眠環境を整えるうえでの一つの選択肢になりうることが示唆されました。

※OSA睡眠調査票の一部設問を抜粋。点数が高いほど、良質な睡眠がとれていることを示唆します。n=20、mean+SE、paired t-test、** p<0.01。効果には個人差があります。

枕で睡眠の質は変わる!ブレインスリープ ピローの特徴3つ

睡眠の質にこだわって日々のコンディションを整えよう!

質の良い睡眠がとれると、翌朝すっきりと目覚めやすく、一日を気持ちよくスタートしやすくなります。日々のコンディションを整えたい方にもおすすめです。

質の良い睡眠を目指したい方は、睡眠医学をもとに設計も素材もこだわって開発されたブレインスリープ ピローを試してみてはいかがでしょうか。

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...