情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

ブレインスリープ ピローMV

【開発ストーリー】ブレインスリープ ピロー

こんにちは。開発担当です。 「ブレインスリープ ピロー」は、脳と睡眠研究によって生まれた枕で、『スタンフォード式 最高の睡眠』のメソッドを集約した唯一無二の枕として、ブレインスリープの看板商品となっています。 今回は「ブレインスリープ ピロー」ができるまでのストーリーをお話させてください。 「世界最高峰」と言われるスタンフォード大学の睡眠研究 ブレインスリープ創業者兼、最高研究顧問である、西野精治(にしの・せいじ)先生は、睡眠研究において「世界最高峰」と言われるスタンフォード大学の医学部教授であり、同大学睡眠生体リズム研究所(SNCL)所長でもあります。 西野先生との出会いから「ブレインスリープ ピロー」の開発は始まります。 黄金の90分の重要性 睡眠には、“ノンレム睡眠(脳も体も熟睡している状態)”と“レム睡眠(体は休んでいるが、脳は起きている状態)”の2種類があります。 このような“ノンレム睡眠”と“レム睡眠”が、一晩に4~5回繰り返され、睡眠の前半3時間は深いノンレム睡眠が多く、明け方に近づくにつれ、レム睡眠が多くなっていきます。 その中でも入眠直後の眠りはじめの90分間に訪れるノンレム睡眠が深くなることで、眠気をより開放するだけでなく代謝ホルモンが促進されることがわかっており、すっきりした朝を迎えられる良質な睡眠に繋がります。この入眠直後の眠りはじめの90分間を、西野先生は「黄金の90分」と呼んでいます。 また、黄金の90分の睡眠の質を高めるには、身体内部の深部体温をコントロールすることも重要で、人には「皮膚温度」(皮膚など体の表面の温度)と「深部体温」(脳や臓器など体の内部の温度)があり、皮膚温度と深部体温の差が縮まると眠くなります。 起きている間は、深部体温が上がって皮膚温度との差が開いている状態ですが、入眠する時は手足からの放熱によって深部体温が下がり、皮膚温度との差が縮まることで、入眠モードに切り替わります。 その放熱をスムーズにするため、枕においては脳を冷やすことが有効であることもわかっています。 そして、先生があるときに仰ったこの言葉から「ブレインスリープ ピロー」の開発は始まります。 「日本には、理に叶った枕がない」 睡眠の質を高める「通気性・フィット感」 こうして始まった「眠りはじめの90分にこだわった、脳を冷やす枕」の開発プロジェクトですが、様々な寝具メーカー様が日々開発を行ってらっしゃる中でも日本には無いというくらいですから、開発も一筋縄ではいきません。 そもそも脳を冷やすには、どんな素材を使えば良いのか。 そんな時に出会ったのが、『エコ・ワールド』の特許取得の編成樹脂と技術です。 特許取得技術を持つ『エコ・ワールド』との出会い とあるご縁から、大分県にある『エコ・ワールド』の特殊グレードポリエチレン樹脂と、その樹脂を糸状に溶かし、編み込みながらスプリング状にしていく特許技術「編成樹脂網状構造体(へんせいじゅしあみじょうこうぞうたい)」と出会いました。 黄金の90分の質を高める通気性 この構造は20年以上前から『エコ・ワールド』が研究開発し続け、通気性・耐久性に優れた職人技の技術です。 この時「この素材と技術なら、眠りはじめの90分にこだわった、脳を冷やす枕を実現できる」と思ったのです。 黄金の90分の質を高めるために必要不可欠な脳の温度を下げる通気性に関しては、ポリエチレン樹脂を編み込むことで、90%以上が空気層となり、抜群の通気性を確保することができました。...

【開発ストーリー】ブレインスリープ ピロー

こんにちは。開発担当です。 「ブレインスリープ ピロー」は、脳と睡眠研究によって生まれた枕で、『スタンフォード式 最高の睡眠』のメソッドを集約した唯一無二の枕として、ブレインスリープの看板商品となっています。 今回は「ブレインスリープ ピロー」ができるまでのストーリーをお話させてください。 「世界最高峰」と言われるスタンフォード大学の睡眠研究 ブレインスリープ創業者兼、最高研究顧問である、西野精治(にしの・せいじ)先生は、睡眠研究において「世界最高峰」と言われるスタンフォード大学の医学部教授であり、同大学睡眠生体リズム研究所(SNCL)所長でもあります。 西野先生との出会いから「ブレインスリープ ピロー」の開発は始まります。 黄金の90分の重要性 睡眠には、“ノンレム睡眠(脳も体も熟睡している状態)”と“レム睡眠(体は休んでいるが、脳は起きている状態)”の2種類があります。 このような“ノンレム睡眠”と“レム睡眠”が、一晩に4~5回繰り返され、睡眠の前半3時間は深いノンレム睡眠が多く、明け方に近づくにつれ、レム睡眠が多くなっていきます。 その中でも入眠直後の眠りはじめの90分間に訪れるノンレム睡眠が深くなることで、眠気をより開放するだけでなく代謝ホルモンが促進されることがわかっており、すっきりした朝を迎えられる良質な睡眠に繋がります。この入眠直後の眠りはじめの90分間を、西野先生は「黄金の90分」と呼んでいます。 また、黄金の90分の睡眠の質を高めるには、身体内部の深部体温をコントロールすることも重要で、人には「皮膚温度」(皮膚など体の表面の温度)と「深部体温」(脳や臓器など体の内部の温度)があり、皮膚温度と深部体温の差が縮まると眠くなります。 起きている間は、深部体温が上がって皮膚温度との差が開いている状態ですが、入眠する時は手足からの放熱によって深部体温が下がり、皮膚温度との差が縮まることで、入眠モードに切り替わります。 その放熱をスムーズにするため、枕においては脳を冷やすことが有効であることもわかっています。 そして、先生があるときに仰ったこの言葉から「ブレインスリープ ピロー」の開発は始まります。 「日本には、理に叶った枕がない」 睡眠の質を高める「通気性・フィット感」 こうして始まった「眠りはじめの90分にこだわった、脳を冷やす枕」の開発プロジェクトですが、様々な寝具メーカー様が日々開発を行ってらっしゃる中でも日本には無いというくらいですから、開発も一筋縄ではいきません。 そもそも脳を冷やすには、どんな素材を使えば良いのか。 そんな時に出会ったのが、『エコ・ワールド』の特許取得の編成樹脂と技術です。 特許取得技術を持つ『エコ・ワールド』との出会い とあるご縁から、大分県にある『エコ・ワールド』の特殊グレードポリエチレン樹脂と、その樹脂を糸状に溶かし、編み込みながらスプリング状にしていく特許技術「編成樹脂網状構造体(へんせいじゅしあみじょうこうぞうたい)」と出会いました。 黄金の90分の質を高める通気性 この構造は20年以上前から『エコ・ワールド』が研究開発し続け、通気性・耐久性に優れた職人技の技術です。 この時「この素材と技術なら、眠りはじめの90分にこだわった、脳を冷やす枕を実現できる」と思ったのです。 黄金の90分の質を高めるために必要不可欠な脳の温度を下げる通気性に関しては、ポリエチレン樹脂を編み込むことで、90%以上が空気層となり、抜群の通気性を確保することができました。...

目覚まし時計の写真

暑くて寝苦しい夜にぐっすり快眠できる方法とグッズを紹介

梅雨から夏にかけては、寝る時の睡眠環境を調節するのが難しく、夜の寝苦しさに悩んでいる方が多いかと思います。 この記事では、そんな暑くて寝苦しい夜でも、ぐっすり快眠できる方法とオススメのアイテムについて紹介しています。 寝苦しい夜の原因 人の体温には大きく分けて2種類あります。 1つは体の表面の温度である皮膚温で、脇や口の中の温度を測ると分かる、一般的な体温です。 もう1つは、脳を含めた内臓など、体の内部の温度である深部体温で、生命維持のために皮膚温より1℃程度高くなっています。 人は手足からの放熱によって深部体温が下がり、皮膚温との差が縮まることで、自然と眠気を感じるようになっています。 また、体温を下げることで脳をリラックスモードに変えることができるので、深部体温を下げることが良質な睡眠のためには重要です。 ですが、夏場は温度・湿度ともに高いことで深部体温が下がりにくいため、なかなか寝つけず、寝苦しく感じることが多くあります。 寝苦しさを更に加速させる原因 晩春から初秋にかけては、夜の暑さや湿度の高さによって寝苦しく感じますが、室温や湿度以外にも、寝苦しさを加速させる原因があります。 1:心身のストレス 通常、ストレスは交感神経を優位にするため、寝つきが悪くなり、睡眠の質を低下させます。神経質で生真面目な性格の人はストレスをより強く感じてしまうため、不眠症になりやすいと言われています。 ストレスは、人間関係の問題や、仕事のプレッシャーなど、負の感情だけではなく、翌日に旅行やデートなどの楽しい予定がある時にも感じます。 また、転職や引っ越しなどによる生活環境の変化がストレスになることもあります。 2:生活リズム(体内時計)の乱れ 人の体には24時間12分のリズムで生理機能や行動を調節する体内時計が備わっていますが、睡眠習慣や生活リズムの乱れによって体内時計が乱れると、夜間の適切な時間帯に眠ることができなくなります。 また、眠りが浅くなることで、十分な時間眠っても疲れが取れないこともあります。 夜更かしが多い方や、日勤と夜勤がある仕事をしている方などは注意が必要です。疲労感が取れず、だるさや頭痛、イライラしやすい、食欲低下などの症状につながります。 3:睡眠前の行動 睡眠前の行動によって、睡眠の質が変わります。 例えば、カフェインは覚醒を促すため、夕方以降に飲むと寝つきが悪くなることがあります。アルコールを大量に摂取すると眠りが浅くなったり、利尿作用によって目が覚めてしまう可能性があるので、注意が必要です。 また、明るい光は覚醒を促すので、入眠1時間前からは間接照明にして、パソコンやスマートフォンの使用を控えるようにしましょう。 4:睡眠環境が整っていない 眠る時の室内や寝具の環境が整っていないと、睡眠の質が低下してしまいます。 例えば、寝室の温度や湿度が高くて不快、照明が明るい、音がうるさいなどの睡眠環境では、深い眠りを得ることはできません。 また、寝心地が悪い、スムーズな寝返りが打てないなど、体に合わない枕やマットレスを使用すると、翌朝、疲れが取れていなかったり、体に痛みを感じる可能性があるので、寝具にこだわることも大切です。 特に、肩こりや腰痛といった不調を感じる方は、現在使用している寝具との相性が悪い可能性があります。 寝苦しい夜を変えるための方法 寝苦しい夜を、快適な睡眠に変える方法をご紹介します。...

暑くて寝苦しい夜にぐっすり快眠できる方法とグッズを紹介

梅雨から夏にかけては、寝る時の睡眠環境を調節するのが難しく、夜の寝苦しさに悩んでいる方が多いかと思います。 この記事では、そんな暑くて寝苦しい夜でも、ぐっすり快眠できる方法とオススメのアイテムについて紹介しています。 寝苦しい夜の原因 人の体温には大きく分けて2種類あります。 1つは体の表面の温度である皮膚温で、脇や口の中の温度を測ると分かる、一般的な体温です。 もう1つは、脳を含めた内臓など、体の内部の温度である深部体温で、生命維持のために皮膚温より1℃程度高くなっています。 人は手足からの放熱によって深部体温が下がり、皮膚温との差が縮まることで、自然と眠気を感じるようになっています。 また、体温を下げることで脳をリラックスモードに変えることができるので、深部体温を下げることが良質な睡眠のためには重要です。 ですが、夏場は温度・湿度ともに高いことで深部体温が下がりにくいため、なかなか寝つけず、寝苦しく感じることが多くあります。 寝苦しさを更に加速させる原因 晩春から初秋にかけては、夜の暑さや湿度の高さによって寝苦しく感じますが、室温や湿度以外にも、寝苦しさを加速させる原因があります。 1:心身のストレス 通常、ストレスは交感神経を優位にするため、寝つきが悪くなり、睡眠の質を低下させます。神経質で生真面目な性格の人はストレスをより強く感じてしまうため、不眠症になりやすいと言われています。 ストレスは、人間関係の問題や、仕事のプレッシャーなど、負の感情だけではなく、翌日に旅行やデートなどの楽しい予定がある時にも感じます。 また、転職や引っ越しなどによる生活環境の変化がストレスになることもあります。 2:生活リズム(体内時計)の乱れ 人の体には24時間12分のリズムで生理機能や行動を調節する体内時計が備わっていますが、睡眠習慣や生活リズムの乱れによって体内時計が乱れると、夜間の適切な時間帯に眠ることができなくなります。 また、眠りが浅くなることで、十分な時間眠っても疲れが取れないこともあります。 夜更かしが多い方や、日勤と夜勤がある仕事をしている方などは注意が必要です。疲労感が取れず、だるさや頭痛、イライラしやすい、食欲低下などの症状につながります。 3:睡眠前の行動 睡眠前の行動によって、睡眠の質が変わります。 例えば、カフェインは覚醒を促すため、夕方以降に飲むと寝つきが悪くなることがあります。アルコールを大量に摂取すると眠りが浅くなったり、利尿作用によって目が覚めてしまう可能性があるので、注意が必要です。 また、明るい光は覚醒を促すので、入眠1時間前からは間接照明にして、パソコンやスマートフォンの使用を控えるようにしましょう。 4:睡眠環境が整っていない 眠る時の室内や寝具の環境が整っていないと、睡眠の質が低下してしまいます。 例えば、寝室の温度や湿度が高くて不快、照明が明るい、音がうるさいなどの睡眠環境では、深い眠りを得ることはできません。 また、寝心地が悪い、スムーズな寝返りが打てないなど、体に合わない枕やマットレスを使用すると、翌朝、疲れが取れていなかったり、体に痛みを感じる可能性があるので、寝具にこだわることも大切です。 特に、肩こりや腰痛といった不調を感じる方は、現在使用している寝具との相性が悪い可能性があります。 寝苦しい夜を変えるための方法 寝苦しい夜を、快適な睡眠に変える方法をご紹介します。...

ブレインスリープをカットする写真

ブレインスリープのものづくりへの想いとこだわり

累計売り上げ20万個を突破した、ブレインスリープの看板商品『ブレインスリープ ピロー』。脳と睡眠研究によって生まれた枕で、皆様の睡眠の質を高めるために様々なこだわりが詰め込まれています。 この記事では、そんなこだわりの詰まった6つの製造工程と、地球環境に配慮したサステナブルな活動をご紹介します。 ブレインスリープ ピローの故郷『エコ・ワールド』 『ブレインスリープ ピロー』は、自然豊かな大分県玖珠町にある『エコ・ワールド』の工場で製造されています。そこで行われている、6つの製造工程と最後に行われる秘密の工程をご紹介します。 工程1:チップを溶かして液状にした後、細い糸状に固める 枕に使用されている素材は、独自に開発しているポリエチレン樹脂です。まずは、企業秘密の機械でポリエチレン樹脂を溶かして液状にした後、細い糸状に固めます。 工程2:特許技術でポリエチレンを編み込む! 1999年から『エコ・ワールド』が研究開発し続けた、透水性・通気性・耐久性、色、形状に優れた独自の特許技術により、編み込みながらスプリング状にしていく「編成樹脂網状構造体(へんせいじゅしあみじょうこうぞうたい)」という構造にします。 この時、同時にオーダーメイドを超えるフィット感を実現する3層9グラデーション構造も構築。その後、お米の産地でもある大分県の不純物の少ないきれいな軟水で冷やしながら成形します。 【POINT】社外秘の特許技術で3層9グラデーション構造を実現 <製造機械担当者> 「『ブレインスリープ ピロー』は、タテが3層構造、ヨコは9層グラデーションになっているため、部分ごとに糸の太さや密度を変えることで、柔らかさを調整しています。製造するには繊細な温度管理が必要なため、その日の気温など、いつも気を配っています」 工程3:数cmのズレをもなくすために熟練の職人が裁断 通常の枕は機械で裁断することが多いのですが、9グラデーションの『ブレインスリープ ピロー』は、数cmのズレがあるだけでも品質を損ねてしまうため、熟練の職人がひとつひとつ、グラデーションを手で確かめながら裁断。そのため、全ての製品がきちんと9つのグラデーション構造となり、高品質を保っています。 【POINT】職人技で、9グラデーションが誕生! <製造機械担当者> <製造・カット担当者> 「製品の特性上、1個ずつ切り分けるにはミリ単位の正確さが求められます。そのため機械ではカットできないので、私達が手作業で切り分けています。最初は境目がまったくわからなかったのですが、今は一瞬でわかります。社長からは「魔法のカッターだね」と言われています(笑)」 工程4:樹脂を安定させるため、裁断後72時間寝かせる ポリエチレン樹脂には伸縮があるため、裁断後72時間寝かせ、製品を安定させます。 工程5:職人がカット&熱処理 ひとつひとつ職人が目で確認しながらカット。さらに、カット面を何度も熱処理して滑らかに整え、肌触りを良くします。 時間や手間はかかりますが、全てのお客様に満足のいく商品をお届けするために、とても大切な工程となっています。また、カットした際に不要となるポリエチレンは、再度溶かして樹脂に加工するため、とてもサステナブルです。 【POINT】手作業による熱処理によって肌触りが良くなっています! <熱処理担当者>...

ブレインスリープのものづくりへの想いとこだわり

累計売り上げ20万個を突破した、ブレインスリープの看板商品『ブレインスリープ ピロー』。脳と睡眠研究によって生まれた枕で、皆様の睡眠の質を高めるために様々なこだわりが詰め込まれています。 この記事では、そんなこだわりの詰まった6つの製造工程と、地球環境に配慮したサステナブルな活動をご紹介します。 ブレインスリープ ピローの故郷『エコ・ワールド』 『ブレインスリープ ピロー』は、自然豊かな大分県玖珠町にある『エコ・ワールド』の工場で製造されています。そこで行われている、6つの製造工程と最後に行われる秘密の工程をご紹介します。 工程1:チップを溶かして液状にした後、細い糸状に固める 枕に使用されている素材は、独自に開発しているポリエチレン樹脂です。まずは、企業秘密の機械でポリエチレン樹脂を溶かして液状にした後、細い糸状に固めます。 工程2:特許技術でポリエチレンを編み込む! 1999年から『エコ・ワールド』が研究開発し続けた、透水性・通気性・耐久性、色、形状に優れた独自の特許技術により、編み込みながらスプリング状にしていく「編成樹脂網状構造体(へんせいじゅしあみじょうこうぞうたい)」という構造にします。 この時、同時にオーダーメイドを超えるフィット感を実現する3層9グラデーション構造も構築。その後、お米の産地でもある大分県の不純物の少ないきれいな軟水で冷やしながら成形します。 【POINT】社外秘の特許技術で3層9グラデーション構造を実現 <製造機械担当者> 「『ブレインスリープ ピロー』は、タテが3層構造、ヨコは9層グラデーションになっているため、部分ごとに糸の太さや密度を変えることで、柔らかさを調整しています。製造するには繊細な温度管理が必要なため、その日の気温など、いつも気を配っています」 工程3:数cmのズレをもなくすために熟練の職人が裁断 通常の枕は機械で裁断することが多いのですが、9グラデーションの『ブレインスリープ ピロー』は、数cmのズレがあるだけでも品質を損ねてしまうため、熟練の職人がひとつひとつ、グラデーションを手で確かめながら裁断。そのため、全ての製品がきちんと9つのグラデーション構造となり、高品質を保っています。 【POINT】職人技で、9グラデーションが誕生! <製造機械担当者> <製造・カット担当者> 「製品の特性上、1個ずつ切り分けるにはミリ単位の正確さが求められます。そのため機械ではカットできないので、私達が手作業で切り分けています。最初は境目がまったくわからなかったのですが、今は一瞬でわかります。社長からは「魔法のカッターだね」と言われています(笑)」 工程4:樹脂を安定させるため、裁断後72時間寝かせる ポリエチレン樹脂には伸縮があるため、裁断後72時間寝かせ、製品を安定させます。 工程5:職人がカット&熱処理 ひとつひとつ職人が目で確認しながらカット。さらに、カット面を何度も熱処理して滑らかに整え、肌触りを良くします。 時間や手間はかかりますが、全てのお客様に満足のいく商品をお届けするために、とても大切な工程となっています。また、カットした際に不要となるポリエチレンは、再度溶かして樹脂に加工するため、とてもサステナブルです。 【POINT】手作業による熱処理によって肌触りが良くなっています! <熱処理担当者>...

編成樹脂網状構造体(へんせいじゅしあみじょうこうぞうたい)

The secret behind the Brain Sleep Pillow's fit ...

Brain Sleep's flagship product, the "Brain Sleep Pillow," which has sold over 160,000 units, is a pillow created through research into the brain and sleep. It is a pillow packed...

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ベッドで寝る女性

暑い夏の夜でも快適に眠るコツ!湿気や寝汗と上手く付き合おう

「熱帯夜が連日重なり、眠りが浅い」「猛暑からか途中で起きてしまい、ぐっすり熟睡することができない」と悩んでいる方は多いはずです。もう暑過ぎて完全にお手上げ状態。どうしたら暑い夜でも、心地よく眠ることができるのでしょうか? 寝苦しい夜の中でもエアコンや扇風機を上手に使って室内の温度・湿度などを調整して、湿気対策を行い、ベタベタとした寝汗を少しでも防ぐことが快眠の鍵。 今回は、夏場の不眠問題を解決するために暑い夏でも快適に眠れるコツを紹介します。 この記事を最後まで読むことで、必ず良質な睡眠を得るための方法を知ることができますよ! 温度湿気と睡眠の関係や寝汗が出る原因から解決策を知って、上手に夏の不眠ストレスを解消する方法をこの記事を通して知りましょう。 1.熱帯夜に寝苦しいのはなぜ?睡眠の質を下げる原因 熱帯夜が連日記録される日本の夏場は、寝苦しく、睡眠の質を下げる原因に。 睡眠を深くするためには、身体の深部体温が自然に低下していくことが必要ですが、暑い夏には深部体温が下がりにくく、睡眠の質が低下してしまいます。 このほか、よく眠れない原因は高温だけでなく、寝具が汗でベタベタしてしまう不快感や扇風機やエアコンの調節が上手くいかないなど、色々な理由がありますね。 暑さのため良い睡眠が十分に取れないと、普段の生活に支障をきたしてしまうので注意が必要です。 原因は、室内温度・湿度の設定が上手くできず、良眠するための体温調節ができていない可能性があります。ただ単に冷房や扇風機のスイッチを入れて寝れば良いだけではありません。 上手に冷房や扇風機を使用して、夜間の深部体温が自然に下がり、深い睡眠が取れる工夫をしましょう。冷房や扇風機の調節は、身体を冷やしすぎないためにも重要です。 適切な室内温度環境を整えて、体の冷やしすぎによる体調不良は避けるようにしましょう。また、部屋の温度環境だけでなく、寝具や寝間着への認識も改めて、夏の不眠生活を改善しましょう。 1-1.朝方に寝汗がべったりな方は湿度に注意! 朝起きたらパジャマや寝具が汗でべったり、寝ている間に多量の汗をかいてしまう経験は、誰しもがあるのではないでしょうか。 人間は寝ている間に発汗し、体内の水分を蒸発させながら、体温を調節しています。汗をかいて、不快で眠りにつけない、汗を大量にかき脱水状態で朝起きた時に気怠さを感じる状態であれば、湿度を調節すれば、よく寝られるようになります。 快適な眠りにつくためにも、「温湿度計」を用意するなどし、エアコンを調節して部屋の湿度を50〜60%に調整するようにしてください。 1-2.快眠できる温度に調節をしよう! 眠りを快眠へ導くためには湿度だけでなく、室内温度の調整も忘れてはなりません。寝室内を適正温度にすることは、睡眠の質を維持する上で大切です。 まずは、スムーズに眠りに入るため、寝る前にしっかり寝室を冷やすことが重要。 この時、敷布団やシーツから熱が逃げるように、布団をめくっておくと寝具が冷やされ、スムーズに眠ることができます。 理想的な室内温度は、夏は「27℃前後」(冬は「15〜18℃」)と言われていますが、熱帯夜のような暑い夜や雨の日など涼しい日もありますので冷房の温度は「26〜28℃」を目安に調節し、室内環境を整えるようにしましょう。 1-3.枕や布団が適切ではない可能性が高い! 室内環境を適正温度・湿度に調整したものの、ぐっすりと眠ることができない場合は、枕や布団などの寝具が合っていない可能性があります。 暑い夜には、人は寝ている間に500ml以上の汗をかくと言われています。そのため、寝汗対策に優れた吸放湿性の高い寝具がおすすめです。 吸放湿性が低ければ、寝床やパジャマは寝汗で湿ってしまいます。高温多湿状態で眠り続けてしまうと、途中で目が覚め、熟睡できなくなりますよね。 睡眠の質を下げてしまいますので、枕や布団などは通気性の良いものを選ぶようにしましょう。 2.熱帯夜といえども冷やしすぎには気をつけよう 熱帯夜だからといって、寝る前に冷たいものをガブガブ飲む、エアコンをガンガンつけて、体温を下げすぎる行為は、体調を崩す原因になります。 室温は高すぎても、低すぎても良質の睡眠は取れません。やや涼しい程度が良いとされ、夏は27℃前後で調節するのが最適です。...

暑い夏の夜でも快適に眠るコツ!湿気や寝汗と上手く付き合おう

「熱帯夜が連日重なり、眠りが浅い」「猛暑からか途中で起きてしまい、ぐっすり熟睡することができない」と悩んでいる方は多いはずです。もう暑過ぎて完全にお手上げ状態。どうしたら暑い夜でも、心地よく眠ることができるのでしょうか? 寝苦しい夜の中でもエアコンや扇風機を上手に使って室内の温度・湿度などを調整して、湿気対策を行い、ベタベタとした寝汗を少しでも防ぐことが快眠の鍵。 今回は、夏場の不眠問題を解決するために暑い夏でも快適に眠れるコツを紹介します。 この記事を最後まで読むことで、必ず良質な睡眠を得るための方法を知ることができますよ! 温度湿気と睡眠の関係や寝汗が出る原因から解決策を知って、上手に夏の不眠ストレスを解消する方法をこの記事を通して知りましょう。 1.熱帯夜に寝苦しいのはなぜ?睡眠の質を下げる原因 熱帯夜が連日記録される日本の夏場は、寝苦しく、睡眠の質を下げる原因に。 睡眠を深くするためには、身体の深部体温が自然に低下していくことが必要ですが、暑い夏には深部体温が下がりにくく、睡眠の質が低下してしまいます。 このほか、よく眠れない原因は高温だけでなく、寝具が汗でベタベタしてしまう不快感や扇風機やエアコンの調節が上手くいかないなど、色々な理由がありますね。 暑さのため良い睡眠が十分に取れないと、普段の生活に支障をきたしてしまうので注意が必要です。 原因は、室内温度・湿度の設定が上手くできず、良眠するための体温調節ができていない可能性があります。ただ単に冷房や扇風機のスイッチを入れて寝れば良いだけではありません。 上手に冷房や扇風機を使用して、夜間の深部体温が自然に下がり、深い睡眠が取れる工夫をしましょう。冷房や扇風機の調節は、身体を冷やしすぎないためにも重要です。 適切な室内温度環境を整えて、体の冷やしすぎによる体調不良は避けるようにしましょう。また、部屋の温度環境だけでなく、寝具や寝間着への認識も改めて、夏の不眠生活を改善しましょう。 1-1.朝方に寝汗がべったりな方は湿度に注意! 朝起きたらパジャマや寝具が汗でべったり、寝ている間に多量の汗をかいてしまう経験は、誰しもがあるのではないでしょうか。 人間は寝ている間に発汗し、体内の水分を蒸発させながら、体温を調節しています。汗をかいて、不快で眠りにつけない、汗を大量にかき脱水状態で朝起きた時に気怠さを感じる状態であれば、湿度を調節すれば、よく寝られるようになります。 快適な眠りにつくためにも、「温湿度計」を用意するなどし、エアコンを調節して部屋の湿度を50〜60%に調整するようにしてください。 1-2.快眠できる温度に調節をしよう! 眠りを快眠へ導くためには湿度だけでなく、室内温度の調整も忘れてはなりません。寝室内を適正温度にすることは、睡眠の質を維持する上で大切です。 まずは、スムーズに眠りに入るため、寝る前にしっかり寝室を冷やすことが重要。 この時、敷布団やシーツから熱が逃げるように、布団をめくっておくと寝具が冷やされ、スムーズに眠ることができます。 理想的な室内温度は、夏は「27℃前後」(冬は「15〜18℃」)と言われていますが、熱帯夜のような暑い夜や雨の日など涼しい日もありますので冷房の温度は「26〜28℃」を目安に調節し、室内環境を整えるようにしましょう。 1-3.枕や布団が適切ではない可能性が高い! 室内環境を適正温度・湿度に調整したものの、ぐっすりと眠ることができない場合は、枕や布団などの寝具が合っていない可能性があります。 暑い夜には、人は寝ている間に500ml以上の汗をかくと言われています。そのため、寝汗対策に優れた吸放湿性の高い寝具がおすすめです。 吸放湿性が低ければ、寝床やパジャマは寝汗で湿ってしまいます。高温多湿状態で眠り続けてしまうと、途中で目が覚め、熟睡できなくなりますよね。 睡眠の質を下げてしまいますので、枕や布団などは通気性の良いものを選ぶようにしましょう。 2.熱帯夜といえども冷やしすぎには気をつけよう 熱帯夜だからといって、寝る前に冷たいものをガブガブ飲む、エアコンをガンガンつけて、体温を下げすぎる行為は、体調を崩す原因になります。 室温は高すぎても、低すぎても良質の睡眠は取れません。やや涼しい程度が良いとされ、夏は27℃前後で調節するのが最適です。...

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情熱だけは、眠らせない。-プロゲーマー・マゴが語る「好きなことで生きる」ということ

モニターの光に照らされて、ひとりの男性がコントローラーを握っている。マゴ選手。格ゲー界で40歳になった今も現役で活躍し続ける彼にとって、この空間は単なる仕事場を超えた、人生そのものの舞台なのだ。 「足も遅いし、特別顔がかっこいいとか、学校内で人気があったとか、そういう才能もなかった。でも格ゲーだけは、なんか人よりもちょっと上手いっぽかった。」 そんな想いから始まった格ゲーとの出会い。 初めて見つけた「自分だけの強み」 ──格ゲーとの出会いを教えてください。 マゴさん: 兄貴がいたっていうのが大きかったですね。兄貴がゲーム好きで、スーパーファミコンとかゲームボーイとかが家にあったんです。兄貴が楽しそうにやってるのを見てて、すごくやりたくなって。 でも兄貴がゲームしてる時、俺が後ろで見てると、親には「ゲームやってる」ってカウントされちゃうんですよ。だから「俺もやりたい」って言うと「あんたもうやってたでしょ?」って(笑)。全然やらせてもらえなかった。 そんな時に格ゲーが出てきて、兄貴が「一人じゃつまらないから、お前もやれよ」って。それが唯一ゲームに触れられるチャンスでした。 ──見てるだけでもプレイしたことになるなんて、厳しい環境だったんですね(笑)。 マゴさん: 兄貴がいた分だけ、他の人よりちょっと上手くて。それまで俺って、自分で誇れるものがなかったんです。足も遅いし、特別モテるわけでもないし。でも格ゲーだけは人より上手かった。初めて「これなら人に勝てる」って思えるものができて、そこでのめり込みましたね。 進学塾よりゲーセンに魅力を感じた少年時代 マゴさん: うちは教育熱心な家庭で、家庭教師をつけてもらったり、地元の塾や横浜駅の進学塾にも通ってました。塾の人には「繁華街は通っちゃダメ」って言われてたんですけど、「近いからこっちの方がいいじゃん」って通ってたら、ゲーセンに寄り道しちゃって。気がついたら塾にたどり着かずにゲーセンにいました。 親からタバコを買いに行くお使いを頼まれた時も、ゲーセンに寄り道してからタバコ屋に行く。当然時間もかかるし、お釣りの一部はゲーム代に消えちゃう。親もわかってたと思いますけどね、そんな感じでやってました。 ──完全にゲーセンの誘惑に負けましたね(笑)。親御さんも気づいてたんでしょうね。 マゴさん: 親もわかってたと思いますけどね。でも、そんな感じでやってました。 プロという概念がない時代の人生選択 ──プロゲーマーになろうと思ったのはどういった経緯だったのですか? マゴさん: 当時はプロシーンなんて概念がなかったんです。だから本当に人生捨ててゲームやってるぐらいの感じで。25、6歳になっても将来どうするかわからなくて、周りからも心配されました。 でも俺的には、自分が生きていくだけのお金さえ稼げて、ゲームする時間が確保できれば、それでいいなって思ったんです。会社に入って出世するとか、お金を儲けるっていうことが、自分の中の幸せではないって。これは諦めっていうより、踏ん切りですね。 そんな時に日本でプロシーンが始まって、幸い当時国内でも強かったので声がかかって、プロになったという感じです。ゲームに対して一生懸命であることが、自分にとって幸せなのかなって思いました。 ──まさに時代の流れとマッチしたタイミングでしたね。自分なりの幸せの価値観を持っていたからこそですね。 マゴさん: そうやっていたら、幸い当時は日本国内でもかなり強いプレイヤーだったので声がかかって、プロになったという感じでした。 プロになって直面した「逃げ場所の消失」 ──プロになって苦労したことは?...

情熱だけは、眠らせない。 - プロサーファー松岡亜音が語る「波が見える瞬間」

朝5時。多くの人がまだ眠りについている時刻に、ひとりの女性が海に向かう。松岡亜音。19歳でありながら、すでに日本サーフィン界の未来を背負って立つ存在として注目される彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「波があると5時ぐらいに起きて、ご飯を食べる前に朝サーフィンして」 そんな彼女の一日は、常に海と共にある。 海辺で生まれた自然な情熱 ──松岡さんとサーフィンとの出会いについて教えてください。 松岡さん: 私は千葉県の南房総市の千倉というところで生まれ育って、海岸の目の前に住んでいたんですけど、両親がサーフショップを営んでいて、そこから自然と、もう6歳の時から海で遊んで、砂遊びやボディボードをやっていました。もう覚えていないくらい小さい頃から、気がついた時にはもう板の上に立っていたという感じで、両親の影響が大きくてサーフィンを始めました。 初めて大会に出たのが4歳の時で、サーフショップのプッシュクラスで2番でした。その翌年の5歳の時に優勝できて、そこからすごく楽しいって思って本格的に始めました。 ──ご家族も皆さんサーフィンを? 松岡さん: 一人っ子なんですけど、父はもうガンガンサーフィンをしていて、母も夏とかたまにサーフィンをする、サーフィン一家です。自然とやるようになりましたね。 厳しい練習の中で育まれた強さ ──ここまで情熱を注ぐようになった背景を教えてください。 松岡さん: やっぱりその初めて優勝した時とか、あとサーフィンはもちろん大会だけじゃなくて、大きい波に乗った時の景色とか、日常生活では味わえない感覚がもう染み付いて、成功した時の喜びがあるから、もっともっとっていう気持ちがすごく強くて。 もちろん大会で優勝して、まず目標はワールドチャンピオン争いに入ることが今の目標なんですけど、その前にサーフィンがすごく楽しいっていうことで大好きなのでやっています。 ──苦労された時期もあったと伺いました。 松岡さん: めちゃめちゃあります。サーフィンを嫌いになることはなかったんですけど、父がかなり厳しくて、ずっと2人三脚でやってきたので。 小学校3年生くらいの時から一年中サーフィンをやり始めて、試合にもどんどん出始めました。でも最初は中高生には勝てないので、試合では負けたり、練習の時に乗れなかったりしたら指導が入って、その時にやっぱりきついことを言われたりとか。もちろん世界を見ていたので、それは承知なんですけど、次の日に学校に行って目が腫れていると「お父さんに怒られたんでしょう」ってお友達に言われたりとか、そういうのがしょっちゅうで、怒られた時の辛さはありました。 でも、そのおかげでメンタルも多分強くなったと思うし、今があるのですごく感謝しています。 10歳での海外挑戦が開いた世界への扉 ──世界を意識するようになったきっかけは? 松岡さん: 10歳の時に初めて海外に行ったんです。一人で約2週間、カリフォルニアに行って、そこから毎年行くようになったんですけど、衝撃を受けました。同い年の子がすごくたくさんいて、自分より年下の子たちも、みんな毎週末試合をやって切磋琢磨していて、そこで毎回入賞できて、自分のサーフィンにもすごく自信がついて。 海外の同い年の女の子と友達になって、毎年行くようになって、英語も徐々に話せるようになって。今ではそのワールドツアーの2番目のCSっていうのを回っているので、割と若い頃から海外に行ってそこを見ていたからっていうのもあると思います。 ──10歳でカリフォルニアに一人で行くなんて、自分は想像できません(笑) 松岡さん: 向こうの日本人の方の受け入れ先があったので、最初は日本語で全然問題なく受け入れてもらいました。12歳以下の子は飛行機で一緒についてくれるガイドの人がいたりとか、最初はすごく緊張したんですけど、でも全然問題なく大丈夫でした。 最初は泣いちゃって、やっぱり緊張と怖さがあったんですけど、行ってからはもうそんなの忘れていましたね。...

情熱だけは、眠らせない。-VTuber因幡はねるが語る「ファンとの約束」

夜23時。多くの人が一日の終わりを迎える時刻に、ひとりの女性が画面の向こうでマイクに向かう。因幡はねる。ななしいんく所属のVTuberとして、7年以上にわたって視聴者と向き合い続けてきた彼女にとって、この時間は特別な意味を持つ。 「みんなの生活のルーティンのうちの一つになりたい」 そんな想いから始まった、毎夜の配信。 人前で話すことの楽しさに気づいた転機 ──はねるさんがVTuberの世界に入ったきっかけから聞かせてください。意外な経歴をお持ちだと聞いていますが。 はねるさん: もともと小さい頃からずっと勉強ばかりして育ってきました。友達もあまりいなくて、表に立つようなことはしないで、ひたすら勉強だけして、いい学校に入るという感じで生きてきたんです。でも大学の時に塾の先生や、エナジードリンクの試食販売のMCなどをバイトでやったときに、意外としゃべるのが好きだなって気づいて。意外と目立つことも好きかもって、そこで初めて知ったんですよね。 それから生配信というものをやってみたときに、ちょっと才能があるかもと思いました。実際才能があったかどうかは置いといて、自分ではちょっと自信がついた時があって、これを一生涯の仕事にしてみたいなと思ったんです。 ──勉強一筋だったのに、人前で話すことが好きって意外な発見だったんですね。 はねるさん: そうなんですよ!自分でも本当にびっくりしました。今まで全然そういうことやったことなかったから。 なぜ毎日23時配信?「ルーティンになりたかった」 ──毎晩23時という時間にこだわった理由があるんですか? はねるさん: デビュー当時に思っていたのは、みんなの生活のルーティンの一つになりたいということでした。なので配信時間も固定していたんです。必ず毎日夜の23時からと決めて、夜の23時になったらYouTubeを見たら因幡はねるがいるというのを、みんなの中に植え付けたいという狙いがありました。毎日23時で必ず配信するというのを続けて、デビューしてから丸一年間は1日も休まないでやっていました。 ──1年間1日も休まないというのは本当に驚異的ですね…! はねるさん: 必ず毎日23時は絶対で、23時にできなかったら朝やるということもやっていました。ただ、最初に初めて休むという時が、ネガティブな理由、例えば病気になった、事故に遭ったとかで休むのはやりたくなかったんです。なので、丸一年経った時に普通に「ただ休みます」と言って休んで、旅行に行ったりしました。 ──最初の休みがポジティブな理由だったのは、ファンの方にとっても安心できたでしょうね。 はねるさん: そうですね。「体調不良で休みます」や「トラブルで休みます」ではなく、「ちょっと旅行に行ってきます」と言えたのはよかったと思います。 配信は「呼吸のようなもの」 ──現在、配信に対する気持ちはどう変化しましたか? はねるさん: どちらかというと、もう配信をやることが当たり前になっています。それがもう普通に、呼吸みたいな感じで生配信をするという状況になっているから、むしろ配信しない日の方が特別みたいな感じになっちゃってますね。 VTuberを始めて7年ちょっとになりますし、その前もずっと生配信を生業としていたので、もう生配信をやらない日というのは私の中で特別なんです。 ここ最近は休むことも増えてきましたけど、休むときはやっぱりすごい罪悪感を感じながら休んでいます。「今日風邪をひいちゃった、休まなきゃいけない、本当に申し訳ないな」とか「今日ちょっと用事があって休まなきゃいけない、申し訳ないな」って、いまだに1日休むだけでもすごい後ろめたい気持ちになります。 「平均で見る」という哲学 ──長く活動を続ける中で、注目度の変動はどう捉えていらっしゃいますか? はねるさん:...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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