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意外と知らない、日常生活を支える縁の下の力持ち”睡眠”の働き

睡眠コラム

意外と知らない、日常生活を支える縁の下の力持ち”睡眠”の働き

#快眠・安眠

夜風が心地良い秋は、快眠の季節。仕事にプライベートに忙しい日本人は、世界的に見ても“睡眠偏差値”が低く、満足に眠れていない人が多いといいます。 眠る時間を削り、大量のやることを優先し続けると、私たちの脳やからだにどんな不調が起こるのでしょうか?

知っているようで知らない、睡眠トリビアをご紹介します。

日本は世界一睡眠偏差値が低い? 理想的な睡眠時間と眠りの質

ある統計データによると、日本人の平均睡眠時間は6.5時間。そのうち6時間未満の人は約40%もいるといわれています。アメリカでは短時間睡眠といわれる短さだといいます。

また、6時間未満しか眠れていない日本人も、本当のところは“7.2時間くらい眠りたい”と感じているといい、その「眠りたい時間」と「実際の睡眠時間」の差も、諸外国に比べて大きいのだそうです。

スクランブル交差点

では、やるべきことをほったらかしにして眠れるだけ眠ればよいのかというと、そういうわけではありません。

実は、「睡眠時間が長すぎると、かえってからだに悪い」というデータも出ています。 大切なのは、「量」より「質」。心やからだにとってメリットのある質のよい睡眠をとるために必要な睡眠時間さえ確保できれば良いのです。

ちなみに、 睡眠時間は年齢によって異なり、加齢とともに短くなります。
8時間眠るのが理想……とよくいわれますが、それは成長期の10代前半まで。働き盛りの25歳前後は7時間といわれているので、やはり実際には少し睡眠時間が足りていないのが現状のようです。

睡眠不足が続くと何が起こる? 意外と知らない6つの睡眠不調

睡眠不足になると、どのような不調が起こるのでしょうか?ここでは、「どうして睡眠と関係あるの?」と思わずにいられない、6つの“睡眠不調”をご紹介します。

1. 太りやすくなる

アメリカ・コロンビア大学の研究報告によると、平均睡眠時間が7〜9時間の人に比べ、6時間の人は23%、5時間の人は50%、4時間以下の人は73%と、睡眠時間が短くなるほど肥満になる確率が高くなっていることがわかったそう。

これは、睡眠中に分泌されるホルモンが関わっているためで、しっかり眠ると脂肪を分解する働きのある「成長ホルモン」や「コルチゾール」、食欲を抑える「レプチン」の分泌が増え、反対に食欲を増進させる「グレリン」の分泌が減少します。
つまり、睡眠不足になるとよく食べるようになり、しかも脂肪がうまく分解できないので、肥満になりやすくなるのです。

2. 感情が不安定になり思慮に欠ける

睡眠不足になると、イライラしやすく、自分のことだけで精一杯になりがちです。 他者の気持ちを思いやるゆとりがないために、睡眠が良好な人と比べて感情をストレートにぶつけてしまい、対人関係に支障をきたすことも。

「最近イライラしやすい」「周囲の人とのコミュニケーションがうまくとれない」「うっかりミスが増えた」といったサインを感じたら要注意!睡眠不足が原因で「器の小さい人間」だとおもわれたら、たまったものではありません。

頭を抱える女性

3. 認知症のリスクがあがる

脳は一番活発な臓器で、使えば使うほど老廃物が蓄積します。たとえば、アルツハイマー型認知症の原因物質のひとつ「アミロイドβ」は、きちんと睡眠をとっている健康な脳なら、正常に分解・排出されます。

しかし、睡眠時間が足りないと、うまく排出できずに脳内に溜まっていき、アルツハイマー型認知症のリスクもあがります。 また、脳にはリンパシステムはありませんが、それにかわる老廃物を捨てる特別なシステムが備わっていますが、脳の老廃物の排泄はほとんど眠っている間におこなわれ、 睡眠時には覚醒時の4-10倍の効率で老廃物が排泄されていった報告があります。

人生最後の日まで自分らしくあり続けるためにも、日頃からきちんと眠る習慣をつけたいものですね。

悩んでる男性

4. 仕事のパフォーマンスが下がる

アメリカで120人の高校生を対象におこなった「睡眠時間と成績の関係」という調査研究によると、睡眠時間が7時間半と長く、就寝時間が10時半頃と早い生徒ほど成績が良かったという結果が出ているそうです。

実際に、十分な睡眠をとらずにいると、何をするにも遅くなったり、記憶力が低下したり、良いアイデアも浮かばなかったりと、仕事のパフォーマンスがどんどん低下していきます。仕事で評価を得たいなら、睡眠を侮ってはいけないのです。

5. 感染症やアレルギーリスクが増える

免疫はホルモンや日内リズムと連動しているため、睡眠と密接に関わっています。 睡眠が不適切になると、ホルモンバランスが崩れ、免疫の働きも狂い、風邪やインフルエンザ、がんなどの免疫に関係する病気になる可能性が高まります。また、免疫力が低下するため、花粉症やアトピーといったアレルギーも悪化しやすくなります。

のどに痛みを感じる男性

6. 死亡率があがる

最近の報告では、前立腺がんや乳がんなどのリスクが睡眠不足で高くなると報告されています。健康な人でも異型細胞といわゆるがんになりやすい細胞が一定の割合で産生されますが、免疫機能により除去されています。従って、免疫力が低下するとがんのリスクも高くなります。

睡眠不足や質の悪い眠りは、がんや心臓病、高血圧といった命を脅かすさまざまな病気の原因になっていることがわかっています。「毎日の睡眠時間が5時間以下の中高年は、7〜8時間睡眠をとる人に比べて、高血圧の発症率が2倍になる」など、眠りと健康に関わるさまざまな研究データが報告されています。

心電図の写真

深い眠りに入った時に分泌が高まる成長ホルモンには、新陳代謝を促し、傷ついた細胞を修復する働きがあります。また睡眠は、睡眠中に増強される免疫機能や、体の修復に関連したホルモンの分泌によるがんのもとになる異型細胞の除去に関わりますので、しっかり眠ることでがん細胞を攻撃してくれます。

また、高血圧によって傷ついた血管の修復は、睡眠中の血圧が低い時におこなわれます。このように、十分な睡眠は健康な身体を長く保つために欠かせないものなのです。

今夜から実践! 睡眠の質を上げる簡単3ポイント

ここでは良質な睡眠を得るための簡単なルーティンを紹介します。

1. 眠りに入る“儀式”をおこなう

「眠る時間に合わせて徐々に灯りを消していく」「アロマを炊く」「パジャマに着替える」「クラシック音楽を聞く」など、 睡眠に入る前の行動をルーティン化することで、覚醒時のONモードからOFFモードに自然に切り替わり、心やからだがリラックスし、寝つきが良くなります。

子供を寝かしつける写真

2. 眠り始めの90分にこだわる

睡眠は眠り始めがもっとも深くなり、眠り始めの90分に成長ホルモンの約8割が分泌されます。

この最初の90分にしっかり眠れていなければ、この後何時間眠ってもすっきり目覚められないなど、睡眠の質が下がってしまうので要注意。

3. セロトニンを増やす

「セロトニン」は睡眠ホルモン「メラトニン」の原料にもなる、良質な睡眠のためになくてはならないもの。 日中に「朝日をしっかり浴びる」「軽い運動をする」「人と触れ合う」といった活動を積極的におこなうことで、セロトニンが増え、夜ぐっすりと眠ることができます。セロトニンは日光の照射で合成が促進され、逆にメラトニンの合成は光で阻害されます。夜と昼のメリハリ・切り替えが大事です。夜間にライトあびることで、ますます眠れず不健康な状態になるので気を付けましょう。

夜のリラックスタイムを楽しみたい季節ですが、睡眠時間を削るほどの夜更かしは睡眠の質を下げるもと。健やかな心とからだのために、幸せな未来のために、豊かな睡眠ライフを満喫しましょう!

靴ひもを結ぶ写真

睡眠儀式という言葉がありますが、理由もなく儀式化するのではなく、睡眠や生体リズムなどの仕組みを理解した上で、自分にとって睡眠によい習慣を取り入れることが大事です。特に私はその習慣を、熟眠の為の「ポジティブルーティン」という言葉を用いて説明しています。

自分に良いからといって他人に強要するものでなく、他人で良かったからといって、必ずしも誰にも効果があるとは限りません。特に、睡眠習慣は個人差があるので、自分にあった最適解を見つけることが大事です。

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情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

情熱だけは、眠らせない。-フットサル界のパイオニア・中井健介が語る「挫折を力に変える哲学」

「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...