情熱だけは、眠らせない。-プロサッカー選手・谷口栄斗が語る「逆境から始まるキャリア」

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情熱だけは、眠らせない。-プロサッカー選手・谷口栄斗が語る「逆境から始まるキャリア」

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プロサッカー選手谷口栄斗選手。彼のプロサッカー選手としてのキャリアは、決して順風満帆ではなかった。アカデミーからトップ昇格を望みながらも、叶わなかった。大学4年間の厳しい修行を経て、プロの道へ辿り着いた。その過程は、多くの人たちが感じる「何度も挫けそうになる瞬間」の連続だったのだ。

兄の背中に映ったボール

──サッカーとの出会いを教えてください。

谷口選手:兄がやってたのが最初のきっかけです。実は3歳ぐらいからサッカーをやってたんです。兄がサッカーをやってて、その姿を見てて、『俺もやりたい』って思ったんですね。

──小学4年生からプロチームのアカデミーに入団されていたと伺いましたが、きっかけは何かあったのですか?

谷口選手:親に連れていかれたんです。別に受けたいとか、そういう気持ちはなかったんですけど、親に『受けてみろ』と言われて受けたのがスタートですね。

──アカデミーに入団したことで何か変化はありましたか?

谷口選手:プロチームのアカデミーは小学生と中学、高校、プロチームが同じ敷地内で活動しているんです。そこにプロの選手がいたりとか、そういう環境が僕にとって『プロサッカー選手になりたい』っていう気持ちを強くしてくれたんだと思いますね。

──具体的には、どんな心境の変化がありましたか?

谷口選手:やはりレベルの違いを感じましたし。みんなうまいんですよ。だから『負けたくない』とか『その中で一番になりたい』みたいな気持ちが出てきました。

──その後、アカデミー時代はどのように過ごされたんですか?

谷口選手:小学4年生から高校3年生まで、ずっとそのプロチームのアカデミーにいました。その中で、U-18、U-19と日本代表にも選ばれるようにもなりました。

期待と現実のギャップ

──高校卒業時、トップ昇格の話はあったんですか?

谷口選手:アカデミーからそのままトップ昇格というのは見送られる形になってしまったんです。高校生の時は自分はU-18とか、日本代表にも選ばれていたので『このままトップ昇格できるかな』という気持ちではいたんですけど。いざ面談すると『プロ昇格はできない』ということを告げられました。そこから大学サッカーに進むという選択をしたんです。

──その時の心境は?

谷口選手:かなり悔しかったというか、心にきましたね。でも、その後の大学4年間があったから、今の自分がいるんだと思います。

地獄の夏、大学1年生の試練

──大学に進学してから、環境の違いを感じましたか?

谷口選手:アカデミーでは上下関係があんまりなくて、先輩のことをくん付けだったり、呼び捨てだったりしてたんです。でも大学は絶対にさん付けだったんです。それが一番わかりやすい違いですね。全寮制で、上下関係もすごく厳しかったですね。

──練習の内容も変わったんですか?

谷口選手:ユースは結構技術系の練習をするんですけど、大学サッカーはフィジカル要素の多いトレーニングをしていました。入学当初から聞いてはいたんですけど、実際やってみるとだいぶしんどかったですね。

──最も辛かった時期は?

谷口選手:大学1年生の時の夏に、一部リーグで戦ってたんですけど、ダントツの最下位で。夏休みに中断するんですよ、リーグ戦が。最下位だったこともあって、その期間中の合宿が地獄すぎました(笑)。午前と午後、両方走りみたいな感じで。2日ぐらい休んでしまいました。

──その後は、どう適応していったんですか?

谷口選手:でも1年の夏休みは大学に入って間もない時だったので、そこからは結構慣れてきたというか。成績がいいときついメニューはあんまりないんですけど、1年の時は圧倒的に負けていたので、その頃はきつかったですね。アカデミーからトップに上がれていたら、こういった経験も無かったですし、今の自分はいなかったと思いますね。

現在のプロ生活

──現在の1日のスケジュールはどんな感じですか?

谷口選手:だいたい週に4回練習があって、週末は試合という感じですね。朝は7時に起床します。朝飯を食べて、準備して、8時過ぎには出発して、10時からだいたい練習開始です。

──練習の時間はどれくらいですか?

谷口選手:練習は10時から11時半から12時ぐらいまで、2時間いかないぐらいですね。午前で練習は終わるんですけど、その後、筋トレだったり、ケアを受ける人がいたり。クラブハウスには大体2時ぐらいまでいます。

──午後はどう過ごされているんですか?

谷口選手:その後、個人で通っているパーソナルトレーニングがあるので、またそこに通ってます。でも夕方には帰ってきてますね。

──睡眠時間はどのくらい取られてますか?

谷口選手:だいたい10時半から11時には寝てます。

──試合前後で睡眠に変化はありますか?

谷口選手:試合前後はすごい眠りにつきにくいですね。前日は緊張したり、試合の変なイメージをしたりして、寝つきが悪かったり。試合後はアドレナリンが出ちゃってるので全然寝れないですね。

──そういう時は、パフォーマンスに影響が出るんですか?

谷口選手:そこはメンタルコントロールというか、寝れなかったからやばいって思わないようにしてますね。変に寝れなかったからやばいって思わないようにしてるので、パフォーマンスに影響は出たことはないかもしれないですね。

睡眠の重要性とプレーの変化 -「感覚」から「思慮」へ

──睡眠がとれた日と、とれなかった日では、どのようなところに変化が表れますか?

谷口選手:やっぱりメンタルですかね。メンタルもすごく大事で、寝れた時はやっぱり不安なことがない中でのプレーなんで、そこはすごくいいプレーにつながっているなと思います。

──ここ数年で、プレーに対する向き合い方で変わったことはありますか?

谷口選手:ここ数年すごく、人間として成長した部分かなと思いますね。感覚でやってましたけど、ちゃんと考えるようになったかなと。

ただ、睡眠をしっかり取れた時とそうでない時では、判断力や周りを見る余裕が全然違うんですよ。その部分の大切さを理解したからこそ、より思慮深くプレーできるようになったのかなと思います。

ブレインスリープとの出会い

──ブレインスリープとの出会いを教えてください

谷口選手:SNSで出てきたのと、二子玉川の蔦屋家電にブレインスリープのコーナーがあるじゃないですか。そこで気になって購入したのがきっかけですね。二子玉川には結構よく行くんです。映画を見に行ったりもします。

──どのくらい使っていただいているのですか?

谷口選手:3、4年前ぐらいに購入して使ってるんですけど、僕はこれまで使ってきた中で本当に一番いいと思いますね。硬さもすごく自分にとってベストで、硬めだけど硬いって思わないというか。不思議な感覚ですね。

──マットレスはいかがですか?

谷口選手:マットレスもすごくいいです。最初1日目はちょっと寝つきは悪かったんですけど、2日目から全然良くて。足の部分が少し高くなってますよね?それも疲労回復にも繋がってるなとすごく思いますね。朝起きた時に結構スッキリしてるというか、体の重さを感じないですね。

睡眠の意味

──谷口選手にとって、睡眠ってなんでしょうか?

谷口選手:やっぱりスポーツをしている以上、回復とかコンディションを整えるということがすごく大事で、影響が大きいのが睡眠だと思います。あと、サッカー選手じゃなく、一人の人間としても、どう1日を過ごすか、どう1日をスタートするかというときに、睡眠というのはすごく大事だなと思いますね。

今後の目標

──今後の目標を聞かせてください。

谷口選手:近い将来、やっぱり日本代表に選ばれたいっていうのはあります。あと、プロサッカー選手である以上、やっぱりタイトルを取りたいと思っているので、リーグ優勝だったり、カップ戦、そういったところを目指したいなとは思ってます。

アカデミーからトップ昇格できなかった19歳。大学4年間で鍛えられた青年。その道のりは決して直線ではなかった。

挫折から立ち上がり、高みを目指す。質の高い睡眠に支えられた、その情熱は決して眠ることはない。

プロサッカー選手・谷口栄斗。彼の背中は、多くのアスリートが進むべき道を示唆しているのだ。

取材日:2025年10月28日

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...

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「野球選手になりたかったんです」 そう笑顔で振り返るのは、フットサル日本代表候補にも選出され、現在は次世代のフットボール文化創造に挑む中井健介さん。小学3年生で友人に誘われるままに始めたサッカーが、やがて彼の人生を決定づけることになった。 「友達に誘われてサッカーを始めた。そこから全てが変わりました」 その道のりは決して平坦ではない。幾度もの挫折を乗り越えながら、常に「負けたくない」という想いを燃やし続けてきた中井さんのストーリーがここにある。 どうしても諦められなかった滝川第二への想い ──中井さんがフットボールの世界に本格的に入るきっかけから聞かせてください。高校受験でかなり苦労されたと聞いていますが。 中井さん: 中学時代にサッカー選手を目指すと決めて、兵庫県で一番強い滝川第二高校のセレクションを受けました。1次は通ったんですが、2次で落ちてしまって。3次セレクションも受けたんですけど、だめで。 ──普通ならそこで諦めますよね。 中井さん: どうしても入りたかったんです。ちょっと他も考えましたけど、やっぱり最終的には滝川第二しかないと思って。それで中学校の監督に相談したら「ちょっと言ってみるわ」と言って、滝川第二の監督に直接掛け合ってくれたんです。 数日後に返事が来て、「3年間試合に出られなくても、勉強して普通科で入学すること」という条件を出されました。一般入試で合格すれば、サッカー部への入部を認めるということでした。 ──それはすごい条件ですね...! 中井さん: セレクションというのは、実力不足の人を入学させないことで、その人に早めに諦めをつかせてあげる優しさでもあると思ったんです。でも、その優しさを受け取らずにチャレンジしたかった。 それまでサッカー中心の生活だったのを、3ヶ月間サッカーを封印して猛勉強しました。そして見事合格を勝ち取って、念願の滝川第二サッカー部に入部できたんです。 背番号31番からの這い上がり ──入学後はいかがでしたか? 中井さん: 現実は厳しかったです。背番号31番。セレクションを経て入部した選手が1番から30番までを占める中、一般入試で入学した僕だけが31番でした。完全にレギュラーから外れた存在として高校生活が始まりました。 でも、ここで諦めるわけにはいかない。一番技術が劣っているなら、一番長い時間練習するしかないと思って、誰よりも最後まで残って練習を続けました。 ──その努力は報われましたか? 中井さん: 地道な努力を監督が見ていてくれて、実力よりも人間力を評価してもらえたんです。1年間の頑張りを見てくれていた監督に試合出場の機会をもらえました。ただ、高校時代はそれでも順風満帆ではなくて、先輩からの厳しい指導や度重なる怪我もありました。 特に2年生の夏、重要な3大会の直前に怪我で落選した時は本当に悔しかったです。チームはその3つの大会を全部優勝しちゃって。「自分もそこにいたかった」って思いましたね。 大学でも続いたサッカー人生 ──高校卒業後は大学でもサッカーを継続されたんですね。 中井さん: はい、専修大学でサッカーを続けました。チームは日本一にもなったんですが、僕はベンチメンバーでした。それでも大学サッカーを通じて、さらに高いレベルでのプレーを経験できたのは貴重でしたね。 フットサルとの運命的な出会い...